笹沢芳渓

象牙・木彫彫刻家

笹沢芳渓
笹沢芳渓
(ささざわ ほうけい)
1886-1939

 芳渓は、明治19年(1886)12月、塩川村坂井(現上田市)の農家に生まれました。本名は金次郎といいます。小学校卒業後13歳で上京し、象牙彫刻家の吉田芳明ほうめい野内弟子となり、象牙彫刻を修業しました。芳渓の芳の字は、師の雅号の「芳」の一字を受けたものです。
 明治中期の日本は急速に近代化を進めようとしており、そのための外貨獲得の方法として、生糸のほか、陶磁器や漆器などの美術品の輸出にも力が入れられました。そんな中で象牙や木を素材にした彫刻工芸の盛んになり、様々な競技会や展覧会が開催され、芳渓も積極的に出品を繰り返しました。
 最初の入選は明治35年(1902)の日本美術協会展への木彫「農夫喫煙のうふきつえん」で、芳渓17歳のときのことでした。翌年には彫刻競技会(日本象牙協会展の前身)に象牙彫刻「愛孫あいそん」を出品し、この作品は宮内省買上げとなりました。以後明治39年、日本美術協会展で象牙彫刻「農夫子抱のうふこだき」が一等を受賞。皇后陛下に購入されたのを筆頭に、幾多の受賞、宮内省買上げが続きましたが、明治40年代の後半、芳渓20代の後半を境に、出品活動は衰えていきました。
 象牙彫刻から出発したこともあり、象牙作品には秀逸しゅういつな作品が多く、受賞した作品のほとんどは象牙作品です。また、象牙を使った帯止めや印鑑などの作品も残されています。象牙作品は20代後半頃までの制作の主力でしたが、30代以降は木彫に主力が移されました。30代・40代の主要作品はいずれも木彫で、木目を生かした繊細なノミ使いに特徴が見られますが、なかには彫技に走って創造性をなくした作品も見られます。
 人物の表情などは特に芳渓の特色の色濃く出ている部分で、好んでテーマにした子どもたちのあどけない表情は、大衆に受け入れられるところなり、着実に愛好者を増やしました。「蟹取子供」「子供とシャボン玉」などによく特徴が出ています。芳渓の制作拠点は東京でありましたが、48歳の時、子どもの病気療養のため帰郷。相次いで次女・次男をなくし、昭和14年、持病の肺結核のため、54歳で死去しました。子どもに先立たれ、晩年は孤独な生活を生地で送りました。

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