金子ふじは、岩手県の造り酒屋の娘として生まれ、何の不自由もなく豊かに育てられ、地元の小学校を卒業後上京し、旧制宮田高等女学校で学びました。良妻賢母としての教育受けて郷里に戻り、向かいの造り酒屋の金子亀次郎と結婚しました。亀次郎が検事ということもあり、各地へ転任し、夫の最後の勤務地が長野県地方検察庁上田支部区検で、昭和12年に赴任しました。
夫も退官して自宅で法律事務所を開き、子育ても終わり、本籍を上田に移し、すべてが一段落したところで上田での団体活動を始めました。昭和17年、国策として官営の大日本婦人会が結成されることになり、ふじは今までに婦人会の役員の経験はありませんでしたが、新しくできた大日本婦人会の会長に推挙されました。
戦後第一回の上田市議会議員選挙が行われ、女性で立候補したのが花岡みよしと金子ふじの2人でした。惜しくもふじは次点で落選してしまいましたが、男女同権を口にしながら、「女性は男性をたてて内助の功にすべきである」という明治生まれの女性としての潜在意識から脱しきれず、女性たちの支持が得られなかったとのであろうと分析されました。
昭和22年上田地区の保護司に任命されたふじは、昭和39年まで保護司を務め、その間上田市更正保護婦人会を発足させ、自らが初代会長を務めました。保護司としてのふじは、社会環境や家庭事情のために犯罪に走ってしまった青少年たちを、母親的な立場から温かく見守り、保護観察中の青少年の話を親身になって聞き、活動の中で心優しい一面をのぞかせました。
ふじは2度目の上田市議会議員選挙にも立候補しましたが、残念ながらまたもや落選してしまいます。このことがあってから保護司の仕事一本に絞り、没頭するようになりました。その実績が認められ、昭和31年、上田地区の保護司会長も努めました。その後、全国保護司連盟会長表彰など数々の表彰を受け、昭和39年には、時の法務大臣から表彰を受けました。これを機会に後進に道を譲り、保護司と上田市更正保護婦人会の会長も辞しました。そのときふじは、すでに79歳になっていました。晩年は友達に囲まれて楽しい日々を送り、昭和44年、83歳の天寿を全うしました。