倉田文作は、文化庁文化財保護部調査官や文化財保護審議会専門委員、奈良国立博物館長、ユネスコ・ローマ文化財保存修復国際センター理事等の要職につき、特に仏像彫刻の研究と文化財の保護に大きな功績を残しました。
倉田の父は画家の倉田白羊です。大正11年、父が山本鼎に誘われて一家を挙げて上田市に移住しました。神科小学校で学び、旧制上田中学校(現上田高等学校)から青山学院英文科に進み、さらに早稲田大学に学びました。昭和17年に大学を卒業し、臨時招集を受け幹部候補生になりましたが昭和19年に解除され、昭和20年には文部省美術研究所に入りました。終戦の玉音放送は京都宇治の平等院で聞き「これからの日本が世界に誇れるものは文化遺産しかない。その文化財を守っていくことこそ自分の仕事なのだ」という思いを一層強く持ちました。
戦争のために日本各地の寺院をはじめ多くの建造物が破壊されました。文部省は終戦の年からさっそく仏像調査に乗り出し、倉田は担当者として全国各地を精力的に回り調査をしました。また、
敗戦後の連合軍総司令部の武装完全接収に抗議して、日本刀は美術工芸品であることを認めさせ、刀剣の海外流失を防ぎました。このことも文化財保護の大きな功績の一つです。
昭和27年からアメリカを皮切りに世界各国で日本古美術展が開催され、いずれの展覧会でも得意な英語を駆使して解説をし、日本の古美術のよさを外国の人々に紹介しました。
日本各地や世界各国の仏像調査や長年の研究をもとに倉田には多くの著書、論文があり、その中でも昭和40年に出版した『仏像のみかた』(技法と表現)は、新版も含めると第23刷発行された代表的な著書で、仏像の見方の入門書として多くの人々に読まれ参考に供されました。
長野県関係では、県の文化財専門委員として県宝の指定や指定された県宝の解説をした『長野県文化財図録』や『信濃の仏像』の解説を。上田市立博物館刊行の『郷土の文化財・仏像』では「上小地区の彫刻について」の一文を寄せています。
昭和58年、奈良国立博物館長在任中に病のため64歳の若さで逝去しましたが、わが国仏教美術研究の第一人者として、文化財の保護に尽くした生涯でした。