西川小扇八

上田地方に日本舞踊を根づかせた舞踊家

西川小扇八
西川小扇八
(にしかわ こせんぱち)
1905ー1979

 上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草かわら町に生まれました。小扇八(本名金子みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。
 とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくあらわし、師匠の代稽古を勤めるほか、近県各地の門下生の発表会や温習会に指導や出演するなど精力的に活躍しました。
 そんなおり、当時長野県下の舞踊指導に時々招かれていた扇五郎師匠は、日本舞踊を長野県下東信地方に普及させるために本格的な指導者を定着させようと考え、光の努力と才能に目をつけ、上田での指導を強く勧め、その結果、光が25歳の時、単身で上田市に転居することになりました。
 上田市での住まいは、鷹匠町公会堂の隣です。稽古場付きの居を構え「西川流名取師範西川小扇八」の看板を上げ、上田市に骨を埋める覚悟で再出発を図りました。芸者衆のおさらいのほか、日本舞踊を習得したいという一般家庭の娘さんたちの稽古の要望がたくさんあり、鷹匠町の稽古場は連日活気に満ちあふれていました。一方、光は東信地方の弟子たちへの指導にも力を入れ、それぞれの拠点への出張稽古や発表会の指導ほか出演を続けました。厳しい中にも人間味溢れる温かい人柄で指導し、多くの門下生に慕われました。
 そんな折、小扇八を見初めたのが松屋弁当店の主人松久仁三郎で、30近い年の差も問題とせず、お百度参りをし、その末に結婚しました。小扇八は一転踊りの合間に店の営業から経理、従業員の世話やきに至るまで、夫を支え実業家としても手腕を振るうことになりました。
 夫が昭和33年に82歳で他界した後は、踊り一筋西川流の重鎮、古参こさんの1人として長い間宗家の常任理事を務め、小扇八の教えを受けた弟子たちは、それぞれ名取師範として日本舞踊の伝承に各地で活躍しています。天にいる小扇八師匠の厳しい中にも温かいまなざしに見守られながら。

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