正木直太郎

信州教育進展の礎を築いた巨人

正木直太郎
正木直太郎
(まさき なおたろう)
1856ー1934

 正木は、安政3年(1856)上田藩士正木六郎左衛門の長男として木町(鉄砲屋敷)に生まれ、元治元年(1964)、上田藩の藩校明倫めいりん堂に就学します。慶応2年(1886)、父が幕府軍に従属して長州征討に向かう途上、大阪で病気にかかり上田に帰り死去しました。そのため、翌年直太郎は11歳で家督を相続したのです。さらにその年の秋、鉄砲屋敷の住宅が火災で全焼、追い討ちをかけるように明治4年廃藩置県が行われ、上田藩から屋敷及び田畑若干を賜り俸禄の道を絶たれました。
 明治6年上田松平しょうへい学校の代用教員となり、初めて教育の道に一歩踏み出したのですが、正木は人の師として教壇に立つには己の力不足を痛感しました。苦しい家計を預かる母を説得して明治7年に上京、同人社で英語を習得、明治9年東京師範学校中等科に入学し、同15年に卒業しました。
 故郷小県中学校(現上田高校の前身)の教諭となり、いよいよ教育者としての本格的な道を歩き始めることができたのは、明治16年、27歳の時です。新しい学問を積んで帰郷した正木は、長野県内では異彩を放ったものと考えられます。着任2年目には、早くも長野県小県中学校長に抜擢されます。
 正木は中学校長2年で懇望されて明治19年、長野県尋常師範学校教諭に転じました。このときから正木の真価が発揮され、信州教育界から認められるようになります。正木は有名なドトハンターの物理学について教授していましたが、その後、教育学、心理学担当に変わり、ローゼンフランスの教育学を翻訳して講義をしていました。正木は新刊書や新輸入書に目を通すという勉強家で、その学識と至徳の人格が生徒たちの信頼と敬仰けいぎょうを集めたのです。37歳の時、正木は師範学校長に昇進し、同時に第三代信濃教育会長に就任して、名実ともに長野県教育界のトップの座につきました。その後、埼玉県や香川県の師範学校長を勤め、中国にも渡り高等師範学童教育を歴任します。
 帰国後、正木は大正2年(57歳)に小諸尋常高等小学校教員として迎えられました。師範学校長まで歴任した正木の小学校長就任とは、驚くべきことでしたが、正木は一向意に介しません。子弟の教育に打ち込める日々の幸せに満足していました。また、正木は学校内のことは首席に任せ、外部に向かっての教育の主張を貫徹することに努力し、特に小学校教育尊重の気運を盛り上げるために、教員俸給の増額、正教員増配など数々の施策の実現に奔走し、昭和9年79歳の生涯を終えました。

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