日本の公衆衛生の父と称される勝俣稔は、第2代上田市長で医師の勝俣英吉郎の長男として、上田町の馬場町で生まれました。何事にも活動的で明るい親しみやすい性格で級友に好かれました。
大正4年、東京大学医学部に入学し、卒業後は北里研究所、慶応大学医学部助手を経て、大正12年、内務省衛生局に移り防疫官となりました。もともと政治に関心を持っていた勝俣は、行政官として水を得た魚のように活躍しました。入局直後に起こった関東大震災では、医者としての知識を持っていた勝俣は、医療救護の施策に走り回りました。
昭和11年に衛生局防疫課長に昇進し、若い医師の防疫官を行政方面に多く採用するよう働きかけたり、衛生行政に関する予算の獲得に政治的手腕を発揮したり、衛生技術者の地位の向上にも意を用いました。衛生省の重要性を説き、計画案を出して運動しました。これが基になり昭和13年厚生省が誕生しました。日本の衛生行政の中で厚生省の誕生は、国民の健康問題、医療問題、福祉の向上に大きな役割を果たしたのです。
明治、大正時代は、赤痢などの防疫が盛んでしたが、昭和になり結核問題が大きな課題となりました。結核患者が蔓延し、国民病とも言われるようになり、結核の予防対策としてBCG接種が有効であると判断した勝俣は、時の衛生局長の反対を押し切ってBCG接種を実行し、結核患者を減らすことに成功しました。また、X線間接撮影も実施にこぎつけ成果を上げました。
終戦を迎え、日本の衛生行政に関しては、占領軍司令部のサムス局長との折衝を勝俣が中心となって当たりました。サムス局長は日本の衛生行政は、科学技術が行政に浸透していないので、機構改革をするよう提言し、これにより医務局、予防局、公衆保健の三局が誕生し、ここに真の公衆衛生行政の制度が生まれました。勝俣は戦後の日本の保健衛生行政の方向を示して官僚生活を引退しました。
勝俣は昭和22年には、財団法人結核予防会副会長及び理事長になり、結核予防のためにリーダーとして活躍しました。結核予防会創立30周年式典を楽しみにしていましたが、それを待たず昭和44年に逝去しました。