真田
昌幸の生年については天正16年(1547)が通説となっており、父真田幸隆・幸綱が天正15年ごろ、武田信玄に従ったため、三男の源五郎(昌幸)は七歳で人質として、甲斐の信玄の元へ送られたと伝えられています。人質といっても、
永禄10年(1567)ごろ、甲斐の名門武藤家の養子となり、武藤
勝頼は、天正3年(1575)5月、三河に出陣しましたが、喜兵衛の二人の兄信綱・昌輝は、長篠の近く
天正10年(1582)3月に主家武田氏が織田信長により滅亡し、同年6月に信長が本能寺の変で死去したことから、信濃国は上杉・北条・徳川の勢力の草刈り場と化しました。こうした情勢の中で、昌幸は上杉景勝・北条氏直・徳川家康などと
第一次上田合戦(神川合戦)は、天正13年(1585)閏8月、真田氏の領有する北上州沼田領を徳川家康が北条氏に引き渡すよう命じたのを、昌幸が拒否したことによる徳川軍の上田城攻撃が始まりでした。徳川軍を神川まで押し戻して大敗させたことは、真田昌幸の武名を一躍天下に鳴り響かせました。
第二次上田合戦は、慶長5年(1600)9月、関が原合戦に伴うものでした。信之は東軍(徳川方)に従い、昌幸と次男幸村は西軍(豊臣方)として、上田城に立てこもりました。中山道から関が原へ向かった徳川秀忠の大軍を翻弄し、秀忠軍を上田城に釘づけにし、関が原への着陣を遅らせました。
しかし、関が原合戦は東軍の勝利となり、昌幸父子は紀州高野山へ配流となり、慶長16年(1611)6月4日、65歳で波乱の生涯を閉じました。墓は、上田市真田長谷寺と九度山