真田信繁は、永禄10年(1567)武藤
昌幸は、家康に対抗するために、豊臣秀吉にも援助を求め、天正14年(1586)に幸村を秀吉に出仕させて臣従しました。その後、秀吉に従い、天正18年(1590)の小田原の役、文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも出陣しました。このころ、幸村は秀吉の有力奉行大谷吉継の
慶長5年(1600)9月、関が原合戦に伴う第二次上田合戦では、長男信之は東軍(徳川方)に従い、父昌幸と次男幸村は西軍(豊臣方)として、上田城に立てこもりました。昌幸と幸村の奮闘は、真田の武名を一段と上げることとなりましたが、豊臣方が惨敗したため、父子は高野山へ配流となりました。
慶長16年(1611)に昌幸は九度山で亡くなりましたが、幸村は慶長19年(1614)の大阪冬の陣が始まるまで、配流先の不遇な生活に耐えていました。大阪冬の陣では、五千余の兵を率いて活躍をしますが、手柄に嫉妬する者も多かったようで、気苦労が絶えなかったと伝わっています。
幸村は、慶長20年(1615)の大阪夏の陣でも奮闘しました。最後の決戦の5月7日には、孤軍奮闘し、家康の本陣めがけて三度突進しましたが、力及ばず討ち死にを遂げました。この真田幸村の壮絶な戦いには、「真田日本一の兵、古より物語にもこれなき由」(『後藤薩摩旧雑録』)と敵方からも賛辞がおくられています。享年49歳でした。