真田
真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従し、信繁を秀吉に出仕させる一方、徳川家康の配下となったことから、信之を家康に出仕させました。こうした状況の中で、信之は家康の重臣本多忠勝の娘小松姫と結婚します。
天正18年(1590)の小田原の役後は、昌幸が上田城主として上田領を支配し、信之は沼田城主として北上州を支配しました。慶長5年(1600)の関が原合戦に伴う第二次上田合戦では、東軍(徳川方)につき、西軍(豊臣方)についた昌幸・信繁の立てこもる上田城を攻めました。関が原合戦後は、昌幸の領地上田領も信之に与えられました。また、昌幸と信繁が死罪を免れ、高野山に配流となるだけで済んだのは、信之の命がけの嘆願によるものでした。
関が原合戦後の上田城は、本丸・二の丸といった中心部は
信之は、農村についても、農民が逃亡することのないように年貢の減免措置を行い、耕作放棄地を減らす政策をとりました。また、用水堰の開削やため池の築造をし
元和(げんな)8年(1622)、信之は松代に領地替えとなりました。松代に移ってからも、明暦3年(1657)に92歳という高齢で隠居するまで、藩主の地位にあり、真田松代藩の礎を築き、その翌年(1658)に病没しました。