小松姫

沼田・上田城主真田信之の妻

小松姫
小松姫
(こまつひめ)
1573-1620

 小松姫は、徳川四天王の一人本多忠勝の長女として、天正元年(1573)に生まれました。天正17年(1589)17歳のとき、徳川家康の養女となり上田城主真田昌幸の長男真田信之に嫁ぎました。
 徳川と信濃の小大名真田氏との間に縁組が結ばれた背景には、(1)天正13年(1585)の第一次上田合戦において、真田が徳川の大軍を相手に勝利し、真田氏の実力と名声が天下に広まったこと(2)この戦いで、弱冠20歳の真田信之が徳川勢を相手に勇ましい武者ぶりで、初陣を飾ったこと(3)豊臣秀吉の仲立ちによる縁談であったことが上げられます。
 小松姫は女丈夫で、家康・秀忠にもはっきりとものを言うほどの勝気な女性であったと伝えられています。慶長5年(1600)関が原合戦の前夜、徳川方の上杉攻めに参加していた真田父子は、下野国犬伏(いぬぶせ)で石田三成挙兵の密書を受け、三人で協議して信之は徳川方へ、父昌幸と弟信繁(幸村)は豊臣方へと別れました。昌幸らが上田城へ引き上げる途中、沼田城へ入ろうとしたところ、留守を守る小松姫は城門を閉じて、この城は信之の城であり敵味方となった今は門を開けることはできないと昌幸らの入場を拒否した有名な逸話があります。
 また、小松姫は、気性の激しい反面、賢明で細やかな愛情の持ち主でもありました。関が原合戦後に、夫信之が昌幸や信繁の助命嘆願をした時、小松姫は実家の本多氏の力を後ろ盾として、家康への懸命の執り成しをしました。さらに、昌幸や信繁の高野山配流の後も、信濃の名産品などを贈って慰めました。
 このように、信之と添い遂げ、真田家の安泰と信之を支えた小松姫は、元和6年(1620)春、病気療養のため江戸から草津温泉へ向かう途中、武蔵国鴻巣(こうのす)の勝願寺で亡くなりました。享年48歳でした。遺骨は、信之が菩提寺としていた常福寺(現在の芳泉寺)に葬られました。芳泉寺境内の墓地には小松姫の立派な石造宝筐(ほうきょう)印塔が建てられました。元和8年(1622)10月、信之は松代に移封になると、松代に大英寺を建立して小松姫の御霊屋(おたまや)を移築しました。

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