仙石忠政

上田城を復興した藩主

仙石忠政
仙石忠政
(せんごく ただまさ)
1578-1628

 仙石兵部大輔忠政は、仙石秀久の子です。秀久は豊臣秀吉の配下として活躍し、天正18年(1590)に小諸城主となり、慶長5年(1600)には秀久・忠政父子は徳川勢の一員として第二次上田合戦で上田城攻撃に加わっています。
 仙石忠政は、慶長19年(1614)に死去した秀久の跡を継いで小諸城主となりました。忠政は、荒廃していた佐久郡の農村復興に力を注いでいましたが、元和8年(1622)に上田へ移封となりました。これまで上田を中心に小県郡を支配していた真田氏は、信濃の中世以来の勢力として、本拠地を動かされないでいた最後の大名でした。その為、小県郡は、中世以来の農村支配体制が色濃く残っていたと見られます。
 しかし、仙石氏という全く新しい領主に替わったことから、完全に武士と農民の分離が行われ、近世(江戸時代)的な支配体制が完成することとなりました。真田氏時代の村の代表の名称「肝煎(きもいり)」も「庄屋」と一般の呼び名に変えられています。
 忠政は、農村だけでなく、上田城及び城下町の整備にも力を入れました。上田城は、慶長5年(1600)の関が原の合戦後に、取り壊されており、真田信之は復興しませんでした。
 忠政は、移封の際に将軍徳川秀忠から破却されたままの上田城の修理料として銀子を与えられ、思うままに修理せよとの命を受けたといわれています。上田城の普請については、寛永3年(1626)4月に幕府の正式な許可が出ています。
 この復興にあたっては、埋められた堀を再び堀り上げて元通りに復元していることから、仙石氏再建の上田城の縄張りは真田氏当時のものを復興したと思われます。しかし、忠政は二年後の寛永5年(1628)病没し、上田城復興の普請は中断されました。そのため、二の丸には門もなく、櫓などの建物も設けられませんでした。本丸については、石垣と隅櫓及び櫓門は築かれ、今日に至るまで、上田城の、そして上田市のシンボルとして伝わっています。

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