松平忠周

幕府の老中も努めた松平氏最初の上田藩主

松平忠周
松平忠周
(まつだいら ただちか)
1661-1728

 松平氏は、江戸時代の中期から明治維新に至るまで、160余年にわたって上田を治めました。忠周は、この松平氏の最初の上田藩主にあたります。幕府の重臣としても活躍し、老中も務めた有能な人物でした。
 忠周は、丹波亀山の藩主松平忠晴の子として生まれました。父忠晴は、徳川氏の三河在住時代の分流のひとつ、藤井松平氏の出身です。藤井松平氏とは、今の安城市藤井に本家から分かれた先祖が住んでいたことによります。
 寛文7年(1667)、父忠晴の願いにより兄忠昭の養子となり、天和3年(1683)には、忠昭の死去により、亀山藩主となりました。貞享2年(1685)、忠周は24歳の若さで若年寄に昇進し、その直後に、五代将軍徳川綱吉の側用人(そばようにん)に登用されています。綱吉は、柳沢吉保などの側用人を重く用いましたが、忠周も綱吉の側近に仕えていた一人でした。
 貞享3年(1686)には、亀山から武蔵国岩槻へ一万石加増の四万八千石となって移されました。しかし、元禄2年(1689)には、病気で勤めも休みがちとなり、側用人の職を罷免(ひめん)されます。そして、元禄10年(1697)には、岩槻から但馬国出石へ同じ石高で移封されました。このように、いったんは失脚した形の忠周でしたが、宝永2年(1705)には再び側用人に任命され、翌年に出石から信濃国上田へ五万八千石で移封を命ぜられました。
 宝永6年(1709)、綱吉が死去したことから、忠周は側用人を罷免となり、翌7年になって、初めて上田に来ました。これは、定府(じょうふ)といって幕府の重要な役職についている間は、江戸を離れることができなかったためです。
 さて、しばらく幕政から遠ざかっていた忠周ですが、享保2年(1717)には京都所司代(しょしだい)に任ぜられます。
 また、享保9年(1724)には老中に昇進し、八代将軍吉宗のもとで幕政にあたりました。しかし、在職中の享保13年(1728)に、数え68歳で病死しました。その遺体は、江戸から中山道を通って京都まで運ばれ、黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に埋葬されました。

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