松平氏は、江戸時代の中期から明治維新に至るまで、160余年にわたって上田を治めました。忠周は、この松平氏の最初の上田藩主にあたります。幕府の重臣としても活躍し、老中も務めた有能な人物でした。
忠周は、丹波亀山の藩主松平忠晴の子として生まれました。父忠晴は、徳川氏の三河在住時代の分流のひとつ、藤井松平氏の出身です。藤井松平氏とは、今の安城市藤井に本家から分かれた先祖が住んでいたことによります。
寛文7年(1667)、父忠晴の願いにより兄忠昭の養子となり、天和3年(1683)には、忠昭の死去により、亀山藩主となりました。貞享2年(1685)、忠周は24歳の若さで若年寄に昇進し、その直後に、五代将軍徳川綱吉の
貞享3年(1686)には、亀山から武蔵国岩槻へ一万石加増の四万八千石となって移されました。しかし、元禄2年(1689)には、病気で勤めも休みがちとなり、側用人の職を
宝永6年(1709)、綱吉が死去したことから、忠周は側用人を罷免となり、翌7年になって、初めて上田に来ました。これは、
さて、しばらく幕政から遠ざかっていた忠周ですが、享保2年(1717)には京都
また、享保9年(1724)には老中に昇進し、八代将軍吉宗のもとで幕政にあたりました。しかし、在職中の享保13年(1728)に、数え68歳で病死しました。その遺体は、江戸から中山道を通って京都まで運ばれ、黒谷の