上田情報蔵
櫓門工事
●上田城跡本丸東虎口櫓門復元工事 101 着工前
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上田城の歴史
1 真田氏による築城と慶長の破却−1
上田城は、天正11年(1583)に真田昌幸によって築城された。真田氏は小県郡真田を本拠とする小土豪であったが、昌幸の父幸隆の代に武田信玄に従い、「信州先方衆」の旗頭として信濃、北上州を転戦した。昌幸は幸隆の三男で、幼い頃より信玄の側近として仕え、武田氏ゆかりの武藤姓を名乗っていたが、天正3年(1575)の長篠の合戦で兄信綱、昌輝がそろって討死したため、真田家を継ぐことになった。
天正10年、武田氏は織田信長によって滅ぼされ、その信長もわずか3ヶ月後の本能寺の変で倒れた。この動乱期に昌幸は目まぐるしく主君を変えて生き残りを図りながら小県郡の制圧に乗り出し、交通の要衝である上田盆地の中央部に上田城の築城と城下町の形成を開始したのである。上田城は従来の山城と異なり、領国統治に便利な平城であったが、南は千曲川とその分流である尼ヶ淵に面し、北と西は矢出沢川の流路を変えて外堀の役目を果たさせるなど、自然の要害も兼ね備えていた。