上田情報蔵
櫓門工事
●上田城跡本丸東虎口櫓門復元工事 102 着工前
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1 真田氏による築城と慶長の破却−2
築城から2年後の天正13年、上田城は徳川氏による攻撃を受けるが、これを退け、真田氏と上田城の名は一躍有名になった。昌幸は以後豊臣秀吉に臣従し、徳川氏と対峙しながら領国と城郭の整備に努め、秀吉の築いた伏見城などとほとんど同じ紋様の瓦や、金箔を押した鯱瓦や鬼瓦を葺いた絢爛たる建造物を持った上田城へと整備していった。慶長5年(1600)に起きた関ケ原の合戦では、真田氏は昌幸と次男信繁(幸村)親子は石田三成方に、長男の信之は徳川家康方にそれぞれ別れて戦うことになり、昌幸は中仙道を西上する徳川秀忠の大軍を相手に籠城戦を行った。秀忠は上田に数日間釘付けにされ、関ケ原の合戦に間に合わず家康に厳しく叱責されたのは有名なエピソードである。
しかし、昌幸の健闘もむなしく合戦は徳川方の大勝利に終わり、明け渡された上田城は徳川氏配下の諸将によって徹底的に破壊され、廃城同然となって信之に引き渡された。信之は徳川氏への遠慮もあって城の修復は行わず、三の丸に屋形を構えて上田領の藩政に当たった。
元和8年(1622)、信之は松代(現長野市)へ移封を命じられ、上田を離れた。真田氏の上田在城は39年間であった。