上田情報蔵
櫓門工事
●上田城跡本丸東虎口櫓門復元工事 104 着工前
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2 仙石忠政による復興−2
元和8年(1622)に小諸より入封した秀久の子の忠政は、徳川秀忠の許可を得て寛永3年(1626)より上田城の復興に着手した。彼の上田城復興に対する熱意は並大抵のものではなく、築城の奉行を勤めた家臣原五郎右衛門に宛てた直筆の覚書の中で細部に至るまで細かく指示を与え、全権をゆだねている。城普請は2年後の寛永5年に忠政が病床に臥すまで続けられ、その後の忠政の病死と重臣間の抗争などの藩内事情から再開されることなく未完成に終わった。
現在見ることのできる上田城の大部分は、このときに築かれたもので、本丸は7棟の重層隅櫓と東西2棟の櫓門及び土塀などが完成したものの、二の丸、三の丸は堀、土塁、石垣などの普請(土木工事)が完成しただけで櫓や門を建てる作事(建築工事)は手付かずに終わった。しかし、最近の発掘調査の結果、二の丸の諸虎口にも櫓門の礎石が据えられていたことが確認され、忠政の計画では二の丸にも建物を建てる予定であったことが窺われる。
仙石氏は忠政以後、政俊、政明と3代84年間にわたって上田を治め、塩田平の溜池の築造、改修などによる農業振興と上田縞(紬)などの産業育成に力を注いだ。