上田情報蔵

櫓門工事
●上田城跡本丸東虎口櫓門復元工事 112 着工前


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2 幕藩時代の櫓門
 上田城は一般の近世城郭と異なり、藩主の居館は真田信之以来一貫して三の丸におかれていた。したがって特別の行事がない限り藩主はおろか一般の家臣も本丸、二の丸に立ち入ることはなかったと推測されている。城内には鬱蒼たる大木が生い茂り、わずかな番人が警護しているのみであった。このような事情から、櫓門や隅櫓についての文献史料は極めて少なく、各櫓の名称すら伝えられていない。わずかに残る断片的な史料によれば、隅櫓は倉庫として用いられ、武具や調度類が納められていたようである。宝永3年の仙石氏から松平氏への引き渡しにあたり作成された「上田城残置候武具帳」(『長野県史』近世史料編)には、「本丸東之門、三道具、小頭壱人、足軽弐人、中間参人」とあり、仙石氏時代には小頭以下6人で警備していたことが窺える。ちなみに本丸西虎口櫓門については「不断締切、番人なし」と記録されている。
 なお、本丸東虎口櫓門の名称については、松平氏在城時代の絵図や文献の一部に「多門」、「渡櫓」等の記載がみられるが、形式的には櫓門であり前記の呼称は当を得ていない。