上田情報蔵
櫓門工事
●上田城跡本丸東虎口櫓門復元工事 118 着工前
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4 絵図−2
(2) 「上田城図」宝永3年(1706)〜弘化4年(1847)
本図の原本は松平家文書と推定され、松平氏入封後から弘化4年に起きた善光寺大地震によって三十間堀が枯渇するまでの期間の絵図と推定される。建物の平面規模、石垣の寸法などが詳細に記入されており、比較的信頼のおける史料と推定される。
本丸東虎口櫓門部分は、下層の柱の配置が黒点で示され、「六間」、「三間」と上層部の規模が記されている。また、袖塀部分は朱線で示し、石落しも「塵落し」として正確に記入されている。
本丸内の注記に「渡櫓二、鉄砲狭間四、窓狭間四十八」とあり、同様に記された隅櫓の狭間数の検討の結果、この数値は本丸の外側(二の丸)より確認できる狭間数と推定された。したがって、櫓門正面の1棟当たりの狭間数は鉄砲狭間2、窓狭間(格子)24と推定され、古写真の観察所見と一致する。