上田情報蔵
●1.上田城の歴史
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上田城は天正11年(1583)真田昌幸(1547-1611)によって築城された。領国統治に便利な平城であり、要害堅固な城とも見えなかったが、実際は周囲の河川や城下町を含めた全体が極めて秀れた構造となっていた。
城主であった真田氏は徳川大軍の二度にわたる攻撃を受け撃退し、天下に名前を知られるようになった。最初の合戦は天正13年(1585)、徳川勢は7千人、真田勢は3千人であったが、真田氏の巧妙な戦術によって徳川軍は思わぬ大敗となった。二度目の戦いは慶長5年(1600)、関ヶ原に向かう途中の徳川軍は3万8千人、これに対し真田昌幸・幸村(1567-1615)父子側は2千5百人だった。しかし、徳川軍は上田城を攻めあぐね、関ヶ原での決戦に遅れる大失態を演じた。
関ヶ原の合戦で徳川氏が決戦に勝利したことにより真田昌幸は城を明け渡し、元和8年(1622)に仙石忠政が上田城主となった。上田城東虎口櫓門は仙石忠政による上田城復興にともない、江戸時代初期の寛永3年〜5年(1626〜1628)の間に建築された。上田城の本丸には東西の虎口(出入口)にそれぞれ櫓門が建てられていたが、上田城東虎口櫓門は本丸の大手口に位置し、正門としての役割を果たしていた。仙石時代には、特別な行事があるとき以外はほとんど使われず、6名の下級役人が常時警護にあたっていた。
宝永3年(1706)には松平忠周が仙石氏に代わり藩主となった。松平氏の在城期間は明治維新までの七代160年にも及び、その間何度も大規模な改修が行われた。現代の上田城と城下町の形はこの時代に整備されたものである。
明治維新後、上田城は国に接収され、明治7年(1874)には7棟の櫓のうち2棟が民間に払い下げられた。その後明治10年頃にかけて、現在の西櫓1棟を除いたすべての建造物と石垣の大部分は解体された。
明治12年(1879)、城の面影が失われていくのを惜しんだ丸山平八郎は所有していた本丸上段、下段の地を松平神社に寄付し、これにより上田城跡の中核部分は市街化などの破壊から免れ現代に遺されることとなった。
昭和初期には上田城跡公園として市民に開放され、昭和9年に(1934)本丸、二の丸の大部分が国の史跡に指定された。昭和16年(1941)、遊郭として使われていたかつての隅櫓2棟が東京の料亭に転売された。これを知った市民から城跡に移築復元する保存運動が起こり、寄付により買い戻された。移築復元工事は太平洋戦争のさなかの1943年から始められ、戦局悪化により中断し、戦後の昭和24年に現在の南櫓、北櫓として完成をみた。この2櫓と寛永期より現存した西櫓は昭和34年(1959)に長野県宝に指定された。その後、1967年から2回にわたって保存修理工事が行われ、かつての姿をよみがえらせた。