上田情報蔵
上田ところどころ
●下之条の巻
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下之条という地名は、古代の耕地区画法「条理」と関係があるようです。
このような区画法で整備された条里的遺構が下之条や隣接の中之条で確認されています。このあたりは千曲川と浦野川が合流する地点で、古くから水田が開かれた地域でした。
また、昔から交通の要所で、古代には東山道が下之条付近を通っていたと考えられており、その道筋に沿って後に松本街道がつくられました。
古くから千曲川の対岸・下塩尻と下之条との間に「渡し」があったようですが、明治初期にはそこに船橋が架けられました。舟十隻を繋いだ約六十メートルの長さの橋でした。
戦国時代、下之条は坂木(現坂城町)を本拠とする村上氏の勢力下にありましたが一五四八年、武田晴信(信玄)と村上義清が下之条から上田原にかけての一帯で戦い、村は戦火に包まれ焼き亡ぼされたと伝えられています。
常福寺の名号石(一八一七年建立)には、村の田畑から戦死者の骨が数多く出土するので、これを弔うために名号石を建て毎月供養することにした旨が記されています。
(撮影日:平成04年05月)
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