■信濃国
信濃国の名は「古事記(こじき)」上巻国譲りの条にはじめてみられますが、ここでは「科野国(しなののくに)」と記されています。このように、「科野」の名は古くからあったものと考えられ、おそらく、現在の更埴市地方を中心とした上田盆地から善光寺平にかけての千曲川中流域に発生した「くに」が、その母体となったものと思われます。
「科野」という語源には、科(しな)の木が多い所であったとか、級戸(しなど)の神が風の神であることから風の強い高原の意であるとか、級坂(しなざか)(傾斜地・河岸段丘・崖錐など)の多い所であるためとかいろいろな考えがあります。
「信濃国」と名が改められたのは和銅6年(713年)になってからです。
信濃国として統一されたのは大化改新後まもなくのことで、伊那(いな)・諏訪(すわ)・筑摩(つかま)・安曇(あずみ)・水内(みのち)・高井(たかい)・埴科(はにしな)・更級(さらしな)・小県(ちいさがた)・佐久(さく)の10郡からなっていました。
■信濃の国造
国造(くにのみやつこ)というのは、各地方を支配させるために、大和政権が有力者に与えた身分です。科野国造は大和平野の中心に勢力をもっていた多(おお)氏の系統であると考えられます。
多氏は天皇家の子孫といわれ、九州の阿蘇山(あそさん)の麓から大和へきたものです。
その一族が上田市塩田へ来て国造となり、他田(おさだ)氏・金刺(かなさし)氏などに分れました。いまも塩田に阿蘇岡(あそおか)(阿曽岡と書く)という所があり、多氏の故郷の名を残しています。
■生島足島神社
上田市塩田の下之郷(しものごう)にある生島足島(いくしまたるしま)神社は科野(信濃)国造のいたところとされています。このお宮には生島神(いくしまがみ)・足島神(たるしまがみ)という二座の神が祀られていますが、この神々はもともと宮中(天皇家)に祀られている神様です。
国造となった多氏の一族がはるばる都からお迎えして祀ったものでしょう。この二神のご神体は大地であるといわれ、またお宮は池の中にあります。お宮のかたちとしては、もっとも古いものです。
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