■信濃国府
東山道は大和政権と東国(東日本)を結ぶためにもっとも大切な交通路でした。この道に沿って国々に国府(こくふ)が置かれました。
国府とは、現在の県庁に当る役所で、その国の政治の中心地です。科野(信濃)国の最初の国府は上田市に置かれたことは疑いありませんが、その場所は不明です。現在条里的遺構が残る上田市神科台地と、常田の信州大学繊維学部敷地周辺に推定されています。
■大和政権と信濃
もともと信濃は大和政権と深い関係にありました。奈良正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)の中には、地方から朝廷に納めた布などがたくさんありますが、信濃からのものは常陸(ひたち)・武蔵(むさし)についで多くあります。
それらには「信濃国印」がおしてあり、上田にあった信濃国府から送られたものとわかります。中には海野郷(うんののごう)(今の東御市)爪工部(はたくみべ)という人の名が書かれたものがあり、宮中のサシバ(貴人にさしかけて、顔をおおうもの)を作った人が、この地方に住んでいたことが知られます。
■信濃路のうた
信濃道(しなのじ)は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に
足踏(あしふ)ましなむ履(くつ)はけわが背(せ) |
信濃国府が上田にあったころ、信濃国から国を守るために、たくさんの人々が「防人(さきもり)」として召集(しょうしゅう)されて行きました。それらの人々の歌が、万葉集(まんようしゅう)などにいくつも残っています。
この歌もそのひとつで、東山道の保福寺峠を越えてゆく夫(おっと)のことを心配してその妻(つま)が詠んだものとされています。夫を思う妻の切々とした愛情がにじみでている歌として有名です。
歌のわけ
「信濃の峠道はこのごろ切り開いたばかりときいております。どうかしっかり沓(くつ)をはいて、足を痛めぬように行って下さい。」
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