1、山に隔てられていた二つの話
信濃民話の中で、伝説として伝えられている小泉小太郎、(または泉小次郎)の話は、その長短は別として数は5、6話にものぼっている。殆どの人が一つだと思っている「ももたろう」の話でさえ、少しずつ違った形で30ほど伝えられているという。口伝えであった昔話は、語り伝えた古老や父母が、地域の風土に合わせて、時には面白く時にはいかめしく、また時には別の昔話を付け加えたりして、楽しんできた事が伺える。
ところで小泉小太郎の話の場合は、上田、小県地方のものと、松本、東筑摩地方のものとが、大きな特色を持って二つに大別できる。
つまり上田、小県地方のものは独鈷山の寺に夜な夜な通った、大蛇の化身である娘さんが産川上流で赤子を産み落とす。その子が流れ下ったのが産川で、下流の小泉村のお婆さんに拾い上げ育てられ、小泉小太郎と名づけられる。しかし彼は毎日大食をしてたくましい少年に成長するが、仕事らしい事は何一つしなかった。あるときお婆さんに頼まれて小泉山へ薪取りに行き、山にある限りの萩の木を取り集め束ねて持ちかえる。お婆さんが萩の束を解いたとたん萩がはぜくりかえって、家いっぱいになりお婆さんは押しつぶされて死んでしまう。
この様に小太郎の産まれ生い立ちについては伝承されているが、大人になってどんな生き方をしたのかは語り伝えられていない。
一方ここから西南の方に山をいくつも隔てた松本、東筑摩地方にある話は成長した小太郎が母である犀竜とともに岩山を切り開いて、当時湖であった松本平の水を千曲川まで流しだした。そしてこの川が犀川と呼ばれるようになったと言われ、彼は湖の水を流し出すために大活躍をした並ならぬ英雄的人物として伝えられている、しかしこちらでは彼の誕生のドラマも、少年時代の事も語り伝えられていない。
2、創り出す民話
いまわれわれが、次の世代にまでに送り届けようとして、紙芝居にしている『小泉小太郎物語』は山や谷に阻まれて大きく二つに切れていた、小太郎民話を自然な形でまとめた壮大な新しい民話と言える。しかしこれは、先人の研究と永い時間を経て出来あがったものである。
1932年(昭7)柳田國男氏は自著「桃太郎の誕生」の中で、この二つの地方の他の話とも比較して、両者の類似する点なども上げもとは一つの話であったろう、と洞察しておられる。
このことを更に明確にして、二つを自然に結びつけたのは、1960年に長編童話「龍の子太郎」(国際アンデルセン賞優良賞)を世に出した松谷みよ子氏らである。彼女はこの本のあとがきの中で、民話採集の旅の中でさまざまな民話の主人公に出会ったが最も心を引きつけられたのは、信州の小泉小太郎の伝説であったことを述べ「おもしろいことに長野県の小県に行くと小太郎の幼時が語り残されているのですが、大きくなって何をしたのかは、とんと知られていません。松本の人たちはまた、小太郎の幼い日を知りません。こんなふうに、いくつかの山を越すうちに、ものがたりがちぎれちぎれになり、断片だけが残されているのでした」と書いている。彼女らがこの二つの地方の話を結びつけたのは、主人公小泉小太郎が自分を産んだ母親を尋ねて旅をするという、母に対するつよい思慕の念であり、その旅で出会った農民達の水への渇望に心動かされる、と言う小太郎の人間愛であり、全くあり得たであろう民衆の心であった。
この新しい小泉小太郎の民話が、最初に世に出たのは1957年「信濃の民話」編集委員会によって発行された民話集の中であった。そして間もなく長編童話『龍の子太郎』が発表され、小泉小太郎の話はその元話として有名になってきた。
3、小太郎話と取り組んだ子どもら
私はそのころ、小太郎話発祥の地である塩田平の中塩田小学校へ転任となり、独鈷山を仰ぎ産川で遊んで育った5年生の担任となった。米どころ塩田平の子どもだけに、米作りの仕事については手伝いの経験もあり、関心も高かった。
6年の入梅の頃から「田植えが始まった」「水不足で困っている」などの話題から始め水争い、水番、雨乞い、など水にまつわるさまざまな話が、学級の朝の話題となった。その中から水にまつわるさまざまな伝承も出てきた。その中でみんなが最も興味を持ったのは、毎日見ている独鈷山、産川にまつわる小泉小太郎の話であった。
この地方に伝わる小太郎話と、更に母を尋ねて旅を続けた新しい民話の両方比較して、後者を学級の研究対象として版画集を作り、更に卒業前に影絵劇として全校児童や父母達にも公開した。当時はめずらしい事だったので、大きな拍手とさまざまな反響をいただいた。勿論この影絵劇の台本つくりの中で、子どもたちは民話の語りを土地の言葉で、精一杯組み立てた。たとえば原作では、村人達は湖の水が流れ出してその後に、広い田畑が出きる事を一番願っていたが、塩田の子どもたちはそれより水不足に苦しむ、農民の水への願望を強く打ち出すよう、自分達の土地の言葉でせりふを作った。ここには民話の語りを作っているというより、自分達の願いを表現している熱気があふれていた。これ
が民話を産み出し、語り伝えてきた民衆の心意気でもあったろう。
民話「小泉小太郎」影絵、
リハーサル(1960年3月)
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影絵「岩にぶつかる小太郎と犀竜」
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4、民話を紙芝居に
われわれは今、40年前に塩田の子どもらが残した「小泉小太郎」の影絵劇の台本を手がかりにして、今度は大人が古くて新しい紙芝居によって、この民話の命を21世紀の子どもたちに送り届けようとしている。
それはこの民話の中にあふれている小太郎と母親(犀竜)の固い愛の絆に心して、土地の農民の為に命がけで岩を崩し川を作り遂に力尽きて濁流の中に、姿を消していった二人の崇高な生きかたを見つめて欲しい。そしてこの話を語り継いできたのは、われわれの祖先達であった事を次の時代の人々に伝えて欲しいと願うからである。
紙芝居の絵は動かない。それだけに語り手の言葉は、見る人たちにそれぞれに多様なイメージを湧き起こさせてくれる。じっくりと描かれた一枚一枚の切り絵と、バックに流れる美しい音楽が、語りと一体になってこの民話の命のときめきを、見る人たちに伝える事が出来る様に願っている。
この制作にかかわったメンバーは、それぞれの分野でかなりの表現力はあるものの、民話研究者も紙芝居作家も語り部もいない、いわば素人ばかりの集団であった。しかし誰にも共通していた事は、前述のようなこの素晴らしい民話の命をぜひ美しい形にして、21世紀の子どもたちに残したいという強い思いであった。
脚色と語りは学生時代に演劇クラブの経験がある、銀河工房の小林寛恵さん (偶然な事に彼女は小学3年生まで深町学級で学ぶ)産川のほとりで生まれ独鈷山を毎日見ながら育った彼女の語りには、人々の心に深くしみいる美しさがあった。
絵はこの地方の美術界で、優れた作品を創作し続ける白井信吾氏(第1美術会員、元美術教師)彼は、子どもらが遠くからでもはっきり見えるように、そしてこの民話の雰囲気を壊さないようにモノトーンのきり絵という紙芝居にしてくれた。
語りのバックの音楽は、幼年時代寝物語にこの民話を聞いて育った私の長男深町浩司(オーケストラ打楽器奏者)が、オリジナル曲を作って送ってくれた。
全体的な演出は銀河工房おもちゃ作家小林茂さんが、紙芝居作りの最初から上演まで、細部にわたって大変な努力をしてくれた。特に語りと音楽の間の取り方など、さすがにご夫婦の呼吸がぴったり合って、大変に素晴らしかった。
信州の山並みの間の里にに伝承されてきた、民衆の素朴な文化遺産であった民話の断片を、約半世紀かけて一つの筋のある話としてまとめることが出来た。われわれはこれを『物語』と呼んできたが、21世紀には『民話』として生き続けることを願うものである。
(2001年6月8日)
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