養蚕年表

養蚕業の歴史を年表としてまとめました。三世紀に百済よりもたらされた養蚕及び絹織物の技術は、その後、信濃国へも伝えられ、平安時代には、糸・絹の納入国として「延喜式」に記載されるまでになります。

年号 事項
仲哀8年(199) 秦功満王帰化して蚕種を献じる
応神14年(283) 百済より弓月王が養蚕および絹織物の技術者を大勢引きつれて帰化し、わが国に養蚕技術伝わる(日本書紀)
仁徳元年(313) 弓月王・阿知使臣の率いてきた技術者が諸国に分置される(日本書紀)
雄略6年(462) 信濃国より真綿が献じられる(農商務省農事調査書)
養老元年(717) 上田で養蚕行われる(信濃国養蚕煩徳碑)
明暦元年(1655) 丸子の依田川沿岸数十町歩が開墾され、桑の栽植が行われる
寛文元年(1661) 上田塩尻村藤本善右衛門、蚕種の製造販売を始める(信濃蚕業沿革史料)
寛文3年(1663) すでに御上ヶ嶋(のちの上田縞)の売買が行われていた(上田・宮下日記)
元禄4年(1691) 上田藩は蚕種製造奨励取締のため種々の成規を設ける(信濃蚕業沿革史料)
宝暦7年(1757) 塩尻村塚田與右衛門「養蚕秘書」を著す
亨和元年(1801) 長瀬村倉沢弥五右衛門蚕種原紙の製造を創始(信濃蚕業沿革史料)
天保8年(1837) 上田・房山組土屋文吉、信州で初めて秋蚕種を製造する
嘉永3年(1850) 上田に繭市場がたつ(丸子町年表)
安政6年(1859) 蚕神を信心すべき令を出す(上田・宮下日記)
万延元年(1860) 諏訪郡平野村増沢清助二つ取り座繰器械を発明し、製糸を行う
明治3年(1870) 8月、政府は蚕種製造取締規則発布
明治4年(1871) 蚕種暴落して天保銭1枚と替えるのに至る。焼棄論起こるが行われず
明治5年(1872) 長野県は小県郡塩尻村藤本善右衛門に、筑摩県は筑摩郡神林村一条礒五郎に蚕種大惣代を命じる
大蔵省は濫造の蚕種売買を禁止する
8月、上諏訪の深山田製糸創業
11月、大蔵省は、生糸粗製濫造を防ぐため、各地方の惣代を招集して生糸改の規則をつくるべく協議会を開く。長野県では小県郡飯沼村吉池定之助、上田町長岡万平代深町茂太郎・埴科郡屋代村唐木銀三郎の3名、筑摩県からは4名出席する
明治6年(1873) 諏訪の片倉兼太郎、座繰製糸をおこす
明治8年(1875) 小県・埴科・更級・高井・水内・佐久の蚕種家が蚕種共同組合千隅社創設
明治10年(1877) 4月、生糸取締規則を廃す
4月、生糸改会社廃止
明治11年(1878) 6月、生糸改会社廃止後、再び粗製濫造の弊が起りはじめたので提糸の生糸改所が設置され、飯沼に上田改所生田出張所できる。所長吉池定之助
明治13年(1880) 上田で第1回長野県繭生糸織物共進会を開催
北佐久で桑の萎縮病発見される
明治14年(1881) 県内の養蚕業者は蚕糸業改良のため、福島県岩代国丹治梅吉製造の春蚕種・赤引の購入を計る
明治15年(1882) 6月、長瀬村で製造した蚕卵原紙に苛性ソーダが使用され問題となる
8月、11年以来の生糸改は提糸のみに行うことは不公平であるとの反対多く廃止となる
明治17年(1884) 1月、群馬県勧業報告第12回に、長瀬村製造の蚕卵原紙に有毒物の含有があると報告され、長野県の蚕種家は農商務省に請い、分析の結果、報告の誤を正す
6月、大日本蚕糸会は養蚕生糸条例17ヶ条を議定する
11月、長野県蚕糸業組合規則を発布
明治18年(1885) 山梨県郡内地方に条桑育(櫓館)始まる。(長野県から伝わった由)
5月、県は蚕糸製造及蚕糸商組合規則発布
5月、上田町に蚕糸業上田組創設(明治13年小県郡蚕種同業組合となる)
明治19年(1886) 6月、県は繭量器取締規則を発布
8月、蚕微粒子病(=黒痣病)予防のため農商務省は蚕種検査規則を発布し、各府県に検査所を設置させ、蚕種の微粒子毒検査を義務づける
明治20年(1887) 5月、上田町に長野県蚕糸業上田組合付属病駆除法伝習所を開設
明治21年(1888) 3月、小県郡蚕糸業組合規則認可
5月、長瀬村風穴蚕種貯蔵会社は長瀬稲荷山に風穴を設け良成績を得る
明治22年(1889) 5月、蚕糸業取締規則発布
6月、下村亀三郎、依田社設立
明治23年(1890) 2月、小県郡下之郷養蚕伝習所設立
明治25年(1892) 5月、小県蚕業学校開校
明治26年(1893) 上田で蚕業雑誌「扶桑之蚕」創刊
5月、霜害により早生桑が被害を受ける
明治28年(1895) 10月、上田繭糸米穀取引所開業
明治29年(1896) 2月、小県郡長中島精一は4千円を投じ帝国大学に蚕微粒子研究を依頼
5月、大霜害により各地桑園は大きな被害を受ける。信濃蚕種組合は鉄道局に請願し群馬・埼玉地方の桑を毎日20車ずつ熊谷駅~上田駅まで臨時列車で輸送する
この年繭上物1貫匁3円60銭~70銭
明治30年(1897) 小県蚕業学校、蚕繭の重さによる雌雄鑑別を始める
明治31年(1898) 5月、大霜害により、桑園大被害を受ける。群馬・埼玉・直江津・高田方面より67,824貫に上る桑を輸送する
5月、小県郡蚕種同業組合設立。上小地区全員(800名)参加し、長瀬からは71名参加する
明治33年(1900) 1月、上田蚕業学校が上田常入権現坂上に移建
明治34年(1901) 南佐久郡岸野村で屋外飼育による天日育始まる(蚕業大辞書県公文)
明治40年(1907) 県下桑園反別37,000町歩のうち、荒廃桑園が3,800町歩になるに至り、この改植奨励のため上高井・小県・南安曇・東筑摩・下伊那の5部に魯桑苗実生栽培苗園を設けその桑苗の無償配布を始める。明治43年無償配布廃止
明治42年(1909) 6月、丸子繭糸株式会社創立
長瀬村の田中徳兵衛蚕卵原紙の改良をはかる(小県郡人名一覧表)
明治43年(1910) 4月、上田蚕糸専門学校開校
6月、松本に東京蚕業講習所夏秋蚕部開所
明治44年(1911) 2月、長瀬蚕卵台紙信用購売販売組合設立
3月、蚕糸業法発布
6月、中丸子倉庫株式会社設立。主として下仁田社に属する製糸業者の繭を預る。大正12年閉止
明治45年(1912) 4月、県は、上田(第1)松本(第2)両地に原蚕種製造所を設置する
大正元年(1912) 長瀬村の蚕卵原紙製造家約80戸、蚕種家は20戸あったが、その後散種(ばらだね)ができるようになって原紙(台紙)を使わなくなり、原紙製造は続々廃業した
大正2年(1913) 7月、小県座繰生糸同業組合設立
この地方の蚕種製造者数丸子町24、東内村4、西内村5、依田村2、塩川村24、長瀬村34名
大正3年(1914) 片倉組今井五介、一代交配種奨励のため養蚕家に蚕種を無償配布し、その成繭を全部引取り製糸し予想以上の好成績を上げる
大正5年(1916) 4月、丸子蚕種株式会社ができる
5月、霜により桑葉大被害を受ける
大正6年(1917) 荒廃桑園の桑品種の改良を奨励するため各郡市で桑接木講習会を開く
東内養蚕組合の設立
大正7年(1918) 1月、信濃絹糸紡績会社創設
大正9年(1920) 1月、糸価最優4,480円、信州上一番4,360円となり開港以来の最高記録となる(繭1貫匁20円)
3月、株式商品市場大暴落し、最優糸価3,450円となる
5月、最優糸価1,030円となる
5月、米国絹業協会長チャーレス・チニー氏丸子の蚕糸業視察
6月、長野県農会及び養蚕組合連谷会は養蚕農家に対し繭価暴落を警告
7月、糸価1,000円となり繭1貫匁10円以下となる
大正10年(1921) この頃より町内に養蚕条桑飼育始まる
大正11年(1922) 4月、県は蚕品種指定に関する規程を発布し、8種の原蚕品種を指定してそれ以外の品種の飼育を禁じた。大正13年より実施。この蚕種指定は全国でも始めてのことであった
大正12年(1923) 4月、米国絹業協会長ゴールド・スミス氏ら丸子の蚕糸業視察
9月、関東大震災起り、横浜港の倉庫にあった輸出生糸が高波による浸水や焼失をし、製糸家大打撃を受ける
大正13年(1924) 6月、旭社各製糸工場が閉業
角内製糸場閉業
昭和2年(1927) 5月、大霜害あり、県下甚大な被害を受ける
糸価が暴落し、休業する製糸家は郡下75工場に及ぶ
県は県下枢要の地16ヶ所に実地指導桑園を設ける
9月、長瀬蚕卵台紙販売組合解散
昭和4年(1929) 2月、依田窪物産株式会社創立。夏繭・秋繭で35,000貫の取引きがあった(昭和17年閉鎖)
世界恐慌のあおりを受け、糸価暴落する
長瀬村に桑皮試験費が計上される
昭和5年(1930) 6月、空前の農村恐慌おき、不況のため町村の税滞納が激増した
糸価惨落。6月700円、9月600円、10月540円となる
昭和7年(1932) この頃の蚕種製造家数丸子町10、長瀬村22、塩川村9、依田村1、東内村1、西内村2名
6月、桑苗検査規程を設け、県内生産移入を問わず他人に譲渡する桑苗は全て県で検査することになる
昭和9年(1934) 県は養蚕農家の生産費の低減を図るため蚕糞利用緬羊飼養・緑肥作物種子無償配布等を行う
大雪が降り、深雪地方では桑樹の胴枯病にかかり、県内8,893町歩に損害
9月、室戸台風の影響で桑葉が黒色となる被害を受け、県内4,184町歩に損害がでる
県は養蚕家の副業奨励として屑繭を整理加工し織物にするための指導技術員を置く
繭価下落し、大根1貫匁と繭1貫匁の値段が同じになる
昭和10年(1935) 農村経済恐慌襲来し、各地に負債整理組合設立される
県は、連年の蚕糸業不況から蚕糸業偏重の政策を拾て、産業転換の方針を出すに至る
昭和16年(1941) 5月、大霜害、県下全般被害甚大
昭和20年(1945) 4月、5工場の共同経営による丸子製糸も軍需省その他の関係当局の要請により、従来の営業を継続することが不能となり、やむを得ず休止する
昭和24年(1949) 6月、繭取引はじまる。1貫匁900円。インフレが進み農家はこの値段では養蚕はなりたたないと嘆く
昭和25年(1950) 5月、蚕の木箱飼(6尺×3尺5寸)はじまる
9月、尿素という肥料ができる
昭和28年(1953) 5月、丸子稲荷神社(中丸子)竣工
昭和30年(1955) 3月、東内養蚕農業協同組合解散し、東内農業協同組合に合併する
昭和36年(1961) 5月、東内農協、稚蚕共同飼育所新築落成祝賀式を行う
10月、西内地区に黄(おう)きょう病発生する
昭和41年(1966) この年春繭1貫3,107円(829円/kg)秋繭1貫3,459円(922円/kg)