|
合戦場の跡は今、住宅地に変わっているが、武田の重鎮、板垣信方や村上義清の身替りで討死したと伝えられる屋代源吾の墓といわれる小さな塚のあたりはまだ豊かな水田地帯である。広々とした平地からは、村上義清の本城・葛尾城の出城・虚空蔵山城や和合城のあったという山腹も望まれる。
常福寺にある供養碑(名号石)には、合戦地一帯に埋もれた戦死者を弔うために慰霊碑が建立され、毎月念仏供養をすると刻まれており、念仏は今なお続けられている。碑の傍の如意輪観音の表情が和やかにやさしい。
上田原合戦は天文17年(1548)、武田晴信(信玄)が村上義清を攻め、村上軍の反撃にあって敗戦となった戦いである。武田軍は旧上田原村の倉升山に、半過の天白山には村上軍が陣を置き、その間に広がる下之条から上田原付近で激しい戦いが行われた。
|
|