第二次上田攻め

 豊臣秀吉の死後、天下を手中に収めようとしている徳川家康は、五大老の一人である上杉景勝を謀反者として討つべく会津へ兵をすすめる。上杉と手を結んだ石田三成も兵を挙げ、東西決戦の火蓋がきって落とされた。

 この重大局面に直面した真田父子は、上杉討伐に進軍すべく犬伏にとどまっていた。この犬伏において、真田昌幸・幸村は豊臣家に、信幸は徳川家に味方することを決める。いわゆる犬伏の別れである。この後、昌幸・幸村は上田城の防備を整えるため、急ぎ上田へ戻る。途中、孫の顔を見ようと沼田城に立ち寄るが、信幸の妻・小松殿に入城を拒否されてしまう。

 慶長5年(1600年)7月21日、石田三成の西軍が家康の留守居役・鳥居元忠の守る京の伏見城への攻撃を始めた。このことを知った徳川家康は、石田三成を討つべく西上を始めた。徳川秀忠率いる第二軍は信濃から北国を威圧しながら進軍してくる。その徳川第二軍には信幸がいる。上田において、真田父子が敵味方となり戦うことになった。徳川の第二軍は約3万、真田勢は約3千。

 9月2日、徳川秀忠の第二軍が小諸に本陣をおき、真田昌幸に「開城せよ」と使者をおくった。上田城下の東を流れる神川の辺りにある国分寺において、本多忠政・真田信幸と真田昌幸が会談した。いったんは城を明け渡すとした昌幸だが、戦備を整えていた。これを知った徳川軍は、上田城を攻めはじめる。まず、砥石城(伊勢山城)に入っていた幸村を信幸が攻めるが、幸村は戦わずして城を明け渡す。満足し上田攻めの本陣を引き払い、木曾路から美濃を経て家康本軍と合流しようと決めた徳川秀忠だったが、真田勢の誘いに乗り、上田城下まで攻め込む。大手門まで攻め込んだ徳川勢は待ち構えていた真田幸村率いる一隊から奇襲をうけ、背後では火の手があがり、逃げ惑う徳川軍。それを攻める真田勢。難なく砥石城に入城し、油断があった徳川軍は、またもや真田昌幸にしてやられた。

 徳川秀忠は、信幸や信州の諸大名に上田を押さえるよう命じ、遅まきながら家康率いる本軍に合流すべく、上田を出発した。大門峠を越え木曾路へ向かったが、険しい山道にも苦しみ、上田で多くの時間を費やした結果、結局、関ヶ原の合戦に間に合わなかったのである。

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