上田城−その原点を考える−
 黒坂周平
 上田城は、今年で築城400年をむかえた。
 天正11年(1583)上田城が築かれ、それを中心としてつくられたのが、いまの上田市の中核となっている上田城下町である。だから上田城は、上田市にとっては、生みの親ということになる。そういう意味で今年―昭和58年は、上田市自身の誕生400年に当る記念すべき年とも言わねばならない。
 この上田城が築かれたということは、それまで東北の真田町に本拠をおいていた真田氏が、その本拠を今の上田市に移したことを意味する。武田氏の滅亡、信長の急逝などから、一変した天下の形勢をみて、はじめて上田・小県地方の一円支配が可能となったことを知った真田氏の、第一にうった手がこれであった。
 そして、事実、上田城を本拠とすることにより、これから少くも約40年間は、上田・小県地方は―これを当時は信濃国小県郡といっていたが―ほぼ完全に真田氏によって統一支配されることになったのである。それまでは、戦国時代という名の物語るように、上田・小県地方も、各地に小土豪が割拠し、さらに武田氏の侵入等によって、争乱のやむことのない地域であった。それが、ともかくも統一されたのであるから、考えようによっては、この天正11年という年は上小地方が、久方ぶりに統一された意義の深い年でもあるわけだ。
 周知のように小県郡という郡名は、1,200年も前からあって、信濃国の10郡のうちの一つとしての行政区域であったことは、現在正倉院に残る御物の銘などから知ることができる。しかし約1,000年前の平安後期から朝廷政治の衰退に伴って、全国各地に庄園などができ、武士が実質的の支配権を握るようになると、郡という名は、形だけのものとなり、むしろ庄園の名が重大となってくる。
 だから、小県郡(もちろん現在の上田市もその中に含まれていた)という名は、一定の区域は示していても、政治的な意味はなかったわけだ。それがこの天正11年という年に、はじめて小県郡の統一が、名実ともに成り立った――少くも現上田市を中心としての、いまの上田・小県地方が、一つの政治支配に組みこまれた――とすれば、この年は、いまの「上小地方」が、約1,000年ぶりに復活した年にあたると考えなければならなくなってくる。その点からすれば、上田築城400年ということは、上田城下町の生誕400年であり、同時に「上小地方」の統一復興が成って400年という年になる。本来ならば、上小地方あげての祝日であってよいわけである。
 さて、このようにして上田築城ということは、単に上田市にとどまらず、上小地方全体にとって、重要な歴史的な意義をもつとすれば、それはまた常に上田市のみならず上小地方全体の立場から考察さるべき課題でなければならない。真田氏は何故、築城の地を現在の地に選んだのか、そしてその築城は庶民にどんな影響を与えることになったのか―などの問いについては、現上田市という立場にとらわれず、いつも少くとも上小地方全体という視野において、検討されることが必要とされるだろう。
 このような基本的姿勢の上に立って、まず上田城の原点は何であったか―いいかえれば、真田氏が、この地を軍政の根拠とした理由はどこにあったか―を考察してみたい。
 城といえば人は、まず名古屋城・姫路城というような巨大な構造物を連想する。とくにあの天守閣という壮麗な建築が目立つので、城というものには当然天守閣があるべきものと考えている向が多い。しかしあの天守閣をもつ城というのは、信長が築いた安土城が初めとされるが(天正4年=1576)これは、現存していない。次に同じ年の築城とされる丸岡城(福井県)が現存し、これは天守閣をもっているが、規模は小さいものである。上田築城の天正11年より以前に造営された城で、天守閣をもつ城というものは、これくらいのものだ。
 天下の名城といわれる名古屋城の天守閣(焼失前のもの)は慶長17年(1612)に建てられたものだし、姫路城のそれは、慶長15年(1610)の造築というから、何れも上田城築城より約30年も後のものである。あの天下統一をなしとげた秀吉の築いた大坂城でさえ、天守閣の完成したのは、天正12年で、上田築城より一年後のことである。(信濃でただ一つ現存する松本城の天守閣も天正18年にできたものだから上田築城より7年もおくれている)。
 天正13年、徳川の大軍が上田城に攻めよせたとき、「天守もなき小城が……」とバカにしてやってきたという言い伝えがあるが、このころ天守閣などある城はほとんどなかった。―だからこのバカにしたという話も、あまりあてにならない。上田城には、天守閣などない方があたり前なので、その方がかえって構築が古いものであることを実証しているのである。ついでだから記しておくが、天守閣というものは、ほんとうは望楼の発達したもので、それが城に威厳をつけるため、あのような堂々華麗な建築に発達していったのである。だから、戦国の世にはあまり見られず大体天下が統一された徳川時代になってから、大名の勢力を誇示し、民衆を威圧するために建てられたものが多い。上田城には、そんなものは不要であった――という点が、また上田城の本質を物語っている。
 さて、真田氏は、何故、この場所に上田城を築くことを考えたのだろうか。
 上田城ができる前、あの辺はあまり人家や田圃などのない―どちらかといえば、淋しいところであったと想像される。(またそれを裏づける資料もある。)第一高い断崖の上である。
 人家や田圃のためになくてはならないのは水だが、それを得る方法がないところであった。
 真田氏は城を築くために、大変な苦労をして、神川や矢出沢川の水を城中に導いている。それでも万一を思って掘った井戸が、いま西南櫓の東側にあるが、この深さは、いまだに正確に計れないほどである。
 そんなところに何故築城したのか。この問いに答えるためには、このあたりは歴史的にどういう意味をもつところであったかを、まず考える必要があろう。
 いまから、約1,200〜1,300年ぐらい前のことと推定されているが、日本の国が大体その基礎を固めたころ、都から地方へ七つの道が開かれた。東海・東山・北陸・山陽・山陰・西海・南海の名をつけた七道がそれで、もちろん中央から地方へ政治・軍事・文化各面にわたっての勢力を滲透させるための道であった。(これらの道のみちすじに当るところは、今も東海道線・山陽線などという鉄道が走っているので、大体推察することができる。)
 さてこの七道のうちの東山道という道が、この信濃を通っていた。都から美濃国(岐阜県)を通り、信濃国の伊那の南端に出て、天竜川を北上し、いまの松本(当時は筑摩といった)に至る。それから北へ進み、いまの四賀村あたりで分岐する。本線は保福寺峠をこえて、青木村へ出る。これは碓氷峠を目指して東進し、関東平野、さらに奥羽地方に出る道である。支線はなお北進し、麻績・長野(昔は善光寺町といった)野尻湖のほとりを通って越後へ向っていた。この東山道という道は、洪水や大雪による交通止めというようなことが少なかったので、古代には東海道や北陸道よりたくさん利用されており、文字通り都から東北地方に向う一級道路であった。その後、東海道の方が利用が多くなるが、それでも中部日本を縦断する道として、その重要度は、戦国末期まで続いていた。
 この東山道が、青木村の方からやってきて、千曲川を渡ったところに、曰理駅という交通の要所があって、そこで馬の中継ぎなどしていたと考証されている。(駅というのは、大体20qに一つづつ設置されていて、一定数の馬をおき、交通の便に供したところ、いわば交通の中心地である。)曰理というのは渡りから出た名前だが、その千曲川を渡ったところは古舟橋の北岸―今の諏訪部あたりと考えるのが定説である。そういえば、古舟橋の北岸には、塔の礎石が残り、また瓦塔の破片など発見されて、古代文化地帯であったことを想像させるに充分である。
 なお、この諏訪部あたりの地域性を吟味してみると、それは、千曲川沿いに、善光寺(今の長野)方面に向う道が通過していたことは確実だ。川中島から長野へかけては、古代文化の大変発達したところなので、そこへ行く道もひじょうに古く重要な道であったと考えねばならない。(ただし、これは岩鼻の難所があるので、室賀峠を越えたものと考えられているが、それにしても、この諏訪部あたりを経由することが必要となってくる。)
 また大門峠や、和田峠も古道であったことが知られているが、そこからの道は、丸子から砂原峠を越え、塩田平へ出て東山道に合したものと想定されている。塩田平からの道が千曲川を渡ったのは、やはり古舟橋のあたりで、それが江戸時代は上田城下町に入る正規の道であった。さらに真田町の鳥居峠も古い道筋であるが、これを神川沿いに下ってきて、国府(古代県庁の所在地)へ向うとすれば(国府は現在染屋台地と推定されている)当然、曰理駅の近辺で東山道と合せざるを得なくなる。このように考えてくると曰理駅とその周辺は、古代から中世にかけての、上小地方の交通の一大中心地であったと想像される。
 さて、城というものは”戦い”のためにつくられたものだ。だから原則としては、”攻めるに難く、守るに易い地形”―すなわち「要害の地」を撰んでつくられることはいうまでもない。(楠木正成の千早城など、そのよい例である。)
 しかし、「要害の地」というだけならば、真田氏が、上田城をつくる前に拠っていた砥石城などは、正に天険を利用した無双の要害といえる。だからこそ、天文19年(1550)連戦連勝の勢いにのって、この城を攻めた武田信玄は、ここを守る村上勢のため、かえって一生に一度という敗戦のうき目をみているのである。(翌年真田氏がこれを攻略して根拠地とした)。
 真田氏が何故砥石城のような絶好の要害から上田の地へその根拠をうつすことにしたのかといえば、それは、上田の地―とくに上田城のあたりがすでに上田小県地方の交通の中心地となっていて、政治支配の中心として絶対に必要の場所であったから――というに尽きよう。
 周知のように、中世も後期に入ると、貨幣経済が盛んとなり世情が大きく変ってくる。政治をとるものは、武力も必要だが、その地方の経済力を握ることが絶対必要な条件とされる。とくに天下が統一の方向に傾けば傾むくほど、武力よりも経済に重きをおいた政治を考えてゆかねばならない。そのためには、山中の天険に籠っていても意味がない。できるだけ交通の便利な地を中心として地域の経済を把握しなければならないわけだ。
 真田が上田へ本拠を移し、城を築いた理由はこの点にある。しかも、そこには、千曲川によって形成された大断崖があり、自然の要害も形成しているのである。あの智謀の将といわれた真田昌幸がこれを見逃す筈はない。そこで周囲の形勢を窺っていながら”時至る”とばかり築城に着手したのが、天正11年というわけである。
 もっとも真田氏がここに注目する前に、すでにここを一拠点とした有力な土豪がいたらしい。それは小泉氏である。いま上田城跡を歩いてみると、本丸西南の隅櫓のすぐ西側に「小泉曲輪」と称する一郭があり、相当広大な土塁が残っている。この「小泉曲輪」という呼び名は、古い上田城絵図にも記されていて、早くから、小泉氏の出城のあとではなかったか―と考える人も少なくなかった。
 小泉氏といえば、鎌倉時代、今の上田市旧泉田村地方に小泉庄という荘園が成立していたが、その中心勢力であった小泉氏の系譜をひくものであることに疑いはない。小泉氏は、鎌倉〜室町〜戦国時代を通じて、浦野川・産川下流地方に勢力をはっていた。鎌倉幕府の執権北条泰時がいまの室賀区から六町六反の地を善光寺に寄進したことは、よく知られていることだがその場所は「小泉庄の室賀郷」であると記されている(『吾妻鏡』)ところをみると、室賀の地も小泉氏の支配下にあったことが知られる。
 ともかく小泉氏は、鎌倉から戦国にかけての有力な土豪であった。その土豪が、東山道に沿って千曲川をこえそこにある要害を、自分の勢力範囲とすることは決して不自然ではない。現に諏訪部の地には、泉之郷・泉崎・泉平・中泉などの地名が残っているのも、それを傍証するものかも知れない。関東の名城小田城跡(茨城県)に「田土部曲輪」という一郭がある。小田城からややはなれたところの田土部にいた田土部氏の築くところという。同じように「小泉曲輪」は小泉氏が築くところであったと推定して誤りはないであろう。天文22年(1553)信玄が塩田城を陥しいれて東信濃を平定したとき、腹心の真田幸隆は、子昌幸を人質として甲府へおくった。その際信玄は褒賞として、小県郡秋和の地を与えたが、その褒状の中に真田氏が”小泉の城”を破却したことを賞めている。このとき破却した城というのがこの「小泉曲輪」にあった出城のことであろう。真田氏はその功によって、秋和の地とともに、このあたりを自分の勢力範囲とすることに成功した――そしてその権益が、武田氏の滅亡後もつづいて、ついにここに本拠としての築城を自他ともに許すような状況を、つくり出して行ったのではないかとも考えられるのである。
 いずれにしても、上田城の築城は、地の利、人の利、そして時の利を最大限に活用して行われたものということができる。
 築城の翌々年―すなわち天正13年に徳川の大軍(約8,000と称せられる)が、上田城に攻めよせた。しかし上田城の固い守備の前には歯が立たず、1,300という死傷者(信幸書状による)を出して敗退してしまう。また天下分け目の戦となった関が原合戦に当って、合戦前に一もみにもみつぶしてしまうつもりで、3万余という徳川秀忠の大軍が押しよせてきた。しかし上田城の厳しい守りをみて、この前の負けいくさに懲りたのか、慎重に包囲しているうち、関が原の戦はどんどん進行してしまった。秀忠が上田城の囲みをといて昼夜兼行で戦場に赴いたが、そのときは、すでに大合戦が終った後であった。家康は大へん怒って嫡子秀忠に面謁さえ許さぬ程であったという。慶長5年(1600)のことである。
 この二度の戦いによって、上田城と真田氏の名は、ひろく天下に知れわたった。城としての規模は小さな方であったかも知れないが、現在与えられている評価は、名古屋城や、姫路城にくらべて、決しておとるものではない。それは一に地・人・時の利を得た築城によって、実質的には”天下の名城”たる真価を遺憾なく発揮したからである。
 徳川氏に政権が移り、昌幸・幸村(本名信繁)の父子は高野山麓にちっ居させられた。昌幸はそこで没し、幸村は、大阪城に入って、冬の陣・夏の陣と相次ぐ大戦闘に、大阪方の中心となって華々しい活躍をした後、壮烈な最後をとげる。この昌幸も、幸村も上田城に生き、上田・小県地方で育くまれた人材であることを忘れてはならない。
 上田城は、昌幸の長男信之によって継がれた。そして元和8年(1622)松代に移封となった。その命をうけた信之は、これを大変残念に思ったらしいことは当時の文書からも察せられるが、上田藩領の住民も同じ気持だったのではなかろうか。
 真田氏の後には、隣の小諸藩主仙石氏が入城し85年在城、土地の開発・産業の振興等にかなりの力をつくしたらしいが、宝永3年(1706)出石へ転封となり、その出石から松平氏がやってきて上田城に入った。これから164年大政奉還まで一貫してその治政時代が続く。宝暦騒動をはじめ、いろいろの事件はあったが、それでも、他藩によくあったように藩主が改易(とりつぶし)になったり、城が廃城になったりすることなく、ともかく上田城は、明治までその生命をりっぱにもちつづけた。幸運ともいえようが、その根底には、築城のときの精神がもえつづけていたものと考えることもできよう。
 その上田城が今年で400年の歳を迎えた。
 お城の櫓は、石垣は、そして濠の水は、400年の間、上田の人々の、また上小地方の人々の生き方をじっと見つめてきた筈である。このお城に対して、わたくしたちは、これからどんな生き方を示していくか―それが、築城400年というこの時に、上田市民が与えられた最も大きい課題といわねばならないだろう。
 この展覧会は、そうした上田城400年の歴史をふまえて開かれている。ここに展示された200点にあまる数々の文書や資料は、いずれも、築城以降400年にわたるわたくしたち祖先の思い出の品々である。と同時に、わたくしたちの将来を考えさせてくれるかけがえのない品々とも言える。心をこめてみつめたいものである。


上田城跡本丸 昭和58年7月31日 消防梯子車より