上田城築城
 小池雅夫
 上田城は天正11年(1583)真田昌幸によって築かれた城であるが、この築城の動機や、着工の時期、あるいは築城当初における城の規模などについては、それを物語る直接的な史料を欠くため、古くよりいろいろな説が述べられている。
 その主なものとして、真田昌幸の事蹟を編輯考証した「長国寺殿御事蹟稿」巻之五では「御築城」の項で「上田伝来記古老の物語に云、川中島合戦の後、信州一円に信玄公御手に入、依之真田一徳斎幸隆約諾のごとく旧領を賜る。此時本より構置ある地形を改め、永禄元年(1558)縄張りして普請始まり、夫よりから堀を構えて其土をもって土手を築き、或外堀の土をもって所の地形を平にし、屋敷曲輪を添普請初しより十三年の内に漸出来せり(下略)」と記されている。
 また、成沢寛経の著「百合さざめごと」では「上田城創建の事、或は永禄元年山本勘助縄張り、或は天文年中一徳斎居城を上田に移し、真田源太左衛門縄張(下略)」と記している。これ等の記事の年代その他について、上田市史では、皆取るべからずと述べている。
 その理由として、真田昌幸は、紀州高野山の蓮華定院に宛てて、天正8年(1580)3月9日付で「真田郷之貴賎於高野山宿坊之儀如前々可為貴院候。恐々敬白」と記した契状を送っている。昌幸の所領である真田郷の住民が、高野山へ詣でた折りは、蓮華定院に泊ることを約束したものである。このことは、天正8年以前の天文・永禄年間等には、真田氏はまだ真田郷を本拠としていたことを物語り、上田城築城はそれ以後であるというわけである。
 ところで上田城築城前およそ1ケ年間における真田昌幸の動きを見ると、まことにめまぐるしい。武田氏に仕え、信州では小県郡真田郷の本領を確保していたほか、北上州では吾妻郡や沼田方面の経略に意をそそぎ、岩櫃城や沼田城を中心に勢力を伸していた。
 ところが、天正10年(1582)3月伊那谷を経て甲斐に迫った織田信長の軍に、武田勝頼方は各地で破れ、同年3月11日勝頼はついに、天目山下田野の地で自刃し、さしも強大を誇った武田家は滅してしまった。
 昌幸は主家として仕えた大きな後ろ楯を失ない、重大な岐路に立たされ、自立の道をさぐらなければならなくなった。こうして昌幸独自の活躍がはじまるわけである。
 昌幸は武田氏の劣勢を知ったころ、北条氏にわたりをつけていたのであるが、伊那谷を北上し、諏訪に到着した織田信長が、徳川家康と会見したり、旧武田領を腹心の家臣に宛行っていることを察知すると、これを見のがさず、同年4月3日には信長に黒葦毛の駿馬を贈り、誼みを通じている。
 ところが、信長は同年6月2日家臣明智光秀の予期せぬ謀反にあい、本能寺に憤死すると、先に信長によって分割され家臣に宛行なわれていた信濃・甲斐・上野等の旧武田領は、徳川家康・北条氏政・上杉景勝等有力諸大名の争奪の場と化し、真田昌幸はあたかも三者の間に挾まれた形となった。そこで昌幸は同年の6月から7月にかけて、景勝と誼みを通じたものの、7月18日北条方が信濃に攻め入るのをみると、また北条氏に属し、さらに同年9月に弟の加津野信尹(信昌)や佐久の依田信蕃が、徳川家康の命をうけ、昌幸に度重なる徳川方への帰属を勧誘すると、これに応じて家康に属することを決意するわけである。
 こうした昌幸の、数ケ月間におけるめまぐるしい身の処し方は、情勢把握にたけた昌幸の、すばやい判断と行動によるもので、周囲の有力諸大名の間にあって、厳しい戦国の世を生き抜くための術でもあった。
 家康と結んだ昌幸は、かつて父幸隆が武田信玄から、小県の平坦部のうち諏訪形や秋和等の地を部分的に宛行なわれていたものの、果せなかった小県全域を支配下に収めることに意をそそぎ、同年10月には禰津を攻め、翌天正11年閏正月には丸子を攻めている。
 一方上杉景勝は、かつて武田氏と甲越同盟を結んでいたとき、武田方の昌幸が沼田攻めの折りなどには、援助を与えていたのであるから、武田氏滅亡の後は、当然上杉方と手を結ぶものと思っていたわけである。ところが真田は徳川と結んだことを知り、景勝が驚き怒ったことは、無理からぬことであった。
 景勝は急きょ埴科・小県郡境の虚空蔵山城を修築強化することにした。上杉方にとって真田は勿論のこと、真田氏を背後から援護する徳川家康の北信濃侵入に備えたためのものである。このことを知った昌幸は、天正11年3月上杉方が守る虚空蔵山城を攻め、これを破っている。
 こうした状勢下の中で、昌幸は家康の許をうけ、小県の中央部で、要害堅固な千曲川畔尼ケ淵の崖上に築城をはじめたのである。この地はかつて、小泉氏の属城であったが、天文の戦乱で廃城となった地と考えられている。
 昌幸による尼ケ淵築城は、一つには当面の敵である上杉方の北信濃よりの侵攻に備えるためのものであり、家康も上杉氏と対峙するためには、昌幸にこの地に築城させることが有利との判断に立っての許可であったものと考えることができる。
 しかし昌幸はそれだけでなく、今まで小県の片隅にあった真田の地から進出し、小県全域を掌握できる交通上、軍事上の要地に拠点を確保することにも大きなねらいがあっての築城であった。このようにして、昌幸は真田郷の南を固めていた戸石城から、尼ケ淵の城へと本拠を移したのである。
 この城地を定めるにあたって昌幸は、かつて甲斐韮崎釜無川の崖上に、天正9年2月着工した武田勝頼の居城、新府城築城の普請奉行を勤めたこと、また上野利根川の支流薄根川の崖上に築かれた沼田城等の要害の地形と似ていることなどが、脳裏に去来したことであろう。
 尼カ淵に築かれた上田城築城の時期については、前述した説の外に「信濃国小県郡年表」では「里伝云。八月二十四日鍬始め、昌幸親ら鋤を取る。諸士之に従う。其材木は坊山(房山)眉見林に採り(享保の頃までは斬株なお残り存せりと云)職工は多く筑摩郡深志より雇い、明年に至り成る。上田城と名づく。(下略)」と記され、天正11年8月着工、翌12年の完成としている。
 ところが、「上杉年譜」三十の中に、天正11年4月13日付で、上杉景勝が家臣の嶋津左京亮に宛てた書状が載せてあり、この書状には「海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵取り立つるの由に候の条、追払ふべきの由、何れへも申し遣はし候。(下略)」として、嶋津に海津(現長野市松代城)からの報告によると、真田が千曲川の尼ケ淵に城を築いているとのことであるから、これを追払うようにと、信濃の上杉方の諸将に命じてあるから、嶋津は至急虚空蔵山城へ移り、様子をつぶさに報告するようにと命じたものである。このことから、上田城築城は天正11年8月からではなく、同年3月から4月ごろにかけてであろうと考えられるのである。
 では、築城当初の上田城の規模であるが、これを物語る正確な城地図が見当らないため、今のところ真田家御事蹟稿所載の図や、松代の浦野家所蔵の図等によるほかはない。

 この図は真田信之時代のものとされ、しかも信之が沼田から上田へ移ったとされる元和2年(1616)以後松代移封の元和8年までの間に書かれたものであろうと考えられている。したがって、築城後およそ35年を経過している。
 慶長5年(1600)関ケ原合戦の後、豊臣方に味方していた昌幸や信繁(幸村)は、高野山へ配流となり、このため徳川方の手によって、上田城の破却が行なわれるが、この図はそれ以後の図であるため、城地には古城とか、ウメボリ(慶長の破却で堀が埋められていることを意味する)のほか、本丸・二の丸・三の丸等が書かれている。
 この図を見ると、現在の本丸と二の丸に、築城当初は三の丸まで含まれていて、今より小規模であったことを伺い知ることができる。また現在の上田高等学校の敷地には、城主屋敷と明記され、信之はこれに居住したわけで、父昌幸によって築かれた城は、破却されたままで、修築を実施できないまま松代に移り、かわって入部した仙石氏によって、寛永3年(1626)より大修築が行なわれ、現在見られる上田城の堀、石垣、櫓等が築かれたわけである。
 昌幸によって築城された上田城は、慶長の破却という思わぬ結果を招来したが、廃城となることはなく、小諸より入部した仙石氏による大修築を経て、出石より入部した松平氏にうけつがれたわけである。
 一方城下町は、昌幸が意図した商人町としての海野町・原町、職人町としての鍛冶町・紺屋町が中核となって、さらに横町・田町・木町・柳町等によって町並がつながり、加えて城下囲の八邑である踏入・常田・房山・鎌原・西脇・諏訪部・生塚・秋和等が形成されることにより、城下町として次第に賑わいを増し、現在の上田市発展の基礎を確固たるものにしたのである。

参考文献
 上田市史 / 小県郡史 / 信濃史料 / 真田家御事蹟稿 / 新編信濃史料叢書 / 上田小県誌歴史編上 / 郷土の歴史 上田城 / 郷土の歴史 城下町上田 / 真田三代録 / 信濃国小県郡年表