天正10年(1582)7月26日 矢沢綱頼宛北条氏直宛行状
 6月の本能寺の変による織田信長の死後、真田昌幸は一旦は上杉景勝に従がおうとしたが、結局小田原の北条氏に帰属する。その事実を知る重要史料。
 昌幸が北条氏に臣従するにつき、証人即ち人質を出したので、高井郡井上において、北条氏直が矢沢綱頼に1,000貫文の地を与えるというのである。矢沢綱頼は昌幸の叔父にあたり、その重臣として昌幸を助けて活躍した。
 この時点ではもちろん、これ以後もその地は北条氏の支配するところとはならなかったから、この朱印状は空手形に終ったものである。武田氏ついで織田氏の滅亡という大変事があいつぎ、支配者不在となった信州の諸地について、徳川・北条・上杉そして真田氏も、盛んにこの種の宛行状を発行している。
 陸奥守は北条氏照で、氏照が氏直の意をうけたまわって出した文書である。


長野市松代 矢沢頼忠氏蔵
此の度真田(昌幸)忠信により、証人指上げ候。神妙に思し召され候、よつて信州奥郡川東井上(高井郡)の内に於いて、千貫文これを遣はし候。いよいよ身命をほうり走り廻るべき旨、仰せ出さるるの状件の如し。
天正十年壬午
(朱印)(北條氏直)七月廿六日 陸奥守(北條氏照)奉之
矢澤(綱頼)殿