依田記
 依田信蕃のぶしげの武功を中心に記述されたもの。信蕃は佐久の出身で、武田氏に仕えていたが、天正10年武田氏滅亡後は、徳川家康に属して活躍、その子康国は小諸城主として、佐久郡を支配した。
 写真は当時北条氏に属していた真田昌幸を、天正10年9月に徳川方に鞍替えさせた工作を記した部分で、「真田をさえ引きつければ残りのものはどうにもなると、2度真田へ使者を出し3度目には真田昌幸自身が信蕃の本拠、佐久郡芦田におもむき信蕃と面談、話がついて昌幸が家康に臣属することになった」と述べられている。ただし、昌幸が徳川方につくにあたっては昌幸の弟信昌(信尹)の活躍も大きかった。
 なお依田記の原本は所在不明であるが、現存する写本のなかでは、この清水氏蔵本が最良のものであり、原本に近いものとされている。


長門町古町
清水重左衛門氏蔵
(前略)
天正十年壬午之秋より依田右衛門佐計策を以、真田安房守大名と申、殊ニ先年之時より武田信玄公使番、其節武藤喜兵衛武篇之行ヲも見聞申候者之儀ニ御座候故、右衛門佐も其所を存寄、先真田をさへ引付味方ニ仕候ハヽ、残小侍共手ニ立儀ニて無御座候間、安御存、先真田方へ午ノ秋津金寺と申出家を遣し、真田方へ色々申遣候、真田対面、具ニ右衛門佐方江も返事御座候つる、就夫二度目に依田十郎左衛門と申者を真田へ弥和談ニ仕、三度目ニハ真田安房守自身芦田小屋之麓迄参候、右衛門佐も芦田小屋より罷出、真田と対面仕置ニ良久相談御座候、其時右衛門佐申様、家康様江往々存寄候ハヽ、起請文をハ申上可然と好み被申候者、真田尤と同心仕候、則請文を上ケ申候、此時真田望ニ乍恐家康様御起請文を申請度由申ニ付て、右衛門佐方より真田上ケ申候起請文を為持、新府へ使を越、真田望之段も申上候処ニ、家康様殊外御満足被成、則家康様之御起請文ヲ真田ニ被下候、是を持右使新府より罷帰申候、扨右衛門佐手前之起請文をも相添、真田方江為持遣し申候へ者、真田別而忝被存候、御起請文再三頂戴拝見仕候由申候、其時真田ニ一郡可被下由御約束ニて御座候由様及候、其後不被下候而、真田御不足を存候ニ付、右衛門佐申様ニ、拙者手前へ者諏訪郡を拝領申、真田ニハ不被下候得者、前之御約束之筋目捨り申候、諏訪郡を差上ケ申候間、是を真田ニ被下候様ニと申上、諏訪郡を差上申候、此替地ニ者上野ニ而敵地を被下候得、私代可申ニ而如此ニ御座候、
一真田も御味方ニ罷成験にと申、右衛門佐と申合、岩村田と申地ヲ責取候半と申、八幡原と申所ニ陣を取、筑摩川の左ニ人数を立ならべ罷有候、右衛門佐ハ筑摩川を打越、塩名田と申所を越上り、則川ニ而濡候人数を集メ、夫より岩村田江働キ、其川口ニ敵突掛り候所ニ、右衛門佐自身真田先へ馬を入、乗崩、人数二三百も討捕申候様承候、其時家康様より御感状御置判頂戴之者ハ、依田右衛門佐・同善九郎・同弟依田源八郎、家中之者ニハ依田左近之助・依田主膳・奥平金弥此者共にて御座候、其侭真田茂上田へ罷帰り、右衛門佐も人数入、其後頓而岩村田之者に降参仕せ、岩村田右衛門佐手ニ入申ニ付て、名代ニ依田勘助と申者を指置申候、(後略)