天正13年(1585)12年12日 信綱寺宛真田昌幸判物
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天正13年(1585)12月から翌年にかけて昌幸は、信綱寺や何人かの家臣に、佐久郡が思い通り領有できたら、そこの地を与えることを約束している。
この時期は神川合戦の後、佐久等に滞陣して上田城再攻の機会をねらっていた徳川軍が、遠州へ引きあげた直後のことである。家康と絶縁し、豊臣秀吉の家臣となった昌幸が、徳川の勢力下であった佐久地方への進出を志したもので、昌幸の意気盛んな様が知られる。
かつての主君信玄の菩提所を造立するにあたり、佐久を領有できたら岩村田の龍雲寺領を、信綱寺に寄進してやる、としているものである。
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真田町横尾 信綱寺蔵
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信玄様御菩提所造立致すべく候の間、佐久郡本意に至っては、龍雲寺領前々の如く貴寺へこれを進め置くべく候。恐惶謹言。
天正十三年乙酉
十二月十二日 昌幸(花押)
信綱寺
衣鉢閣下
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