天正年間上田古図
 真田昌幸築城前後の上田の面影を伝えるただ一つの図で、水路を中心に描いたもののようである。その水系については誇張もされているようで、正確さには疑問もある。しかし千曲川の段丘崖に臨んだ微高地である自然堤防上に築かれた、上田城(「屋形」)と城下町、その北側に広がる後背湿地の様子がよくうかがえる。
 「屋形」の左上に見られる大きな堀は、上田城二の丸の百間堀と呼ばれたもので、現在は陸上競技場と野球場になっているところである。
 この大水濠は、築城にともない、川筋を現在のように変更される以前の矢出沢やでさわ川と蛭沢ひるさわ川が現北大手付近で合流して流れこんでいた川の跡を利用して、城堀に改修したものと推定されている。
 いずれにしても上田城は、周辺の川や沼などの水系をたくみに利用して、築かれた城であった。
 また、「屋形」の右下の「常田御屋敷」は現上田高校の地にあたる。『長野県町村誌』によると、常田氏代々の居館であったところで、昌幸上田築城の際、その郭内になった、とある。昌幸の時代は不明であるが、その子信之から、仙石氏、松平氏と代々の上田城主の屋敷となり上田藩庁ともなったところ。


上田市二の丸3番3号(上田城跡公園内)
上田市立博物館蔵