元和年間上田城図(真田家御事蹟稿附図)
 図中、中央上部に「内記ヤシキ」即ち真田信之次男内記信政邸があるため、信之が沼田城に長男信吉をおき、上田城へ移った元和2年(1616)頃から松代移封の同8年(1622)の間のものと推定されている。
 方形の堀に囲まれた二つの屋敷が見られるが、この内、右下のものは、仙石・松平氏時代を通じての城主屋敷で、現上田高校の地である。この絵図でも城主真田信之の屋敷を描いたものであろう。(その左横は、その付属の屋敷であろう。現上田高校校庭。)左上の屋敷は現清明小学校の地にあたり、仙石氏以降は、古屋敷・中屋敷または御作事と呼ばれたところ。この絵図は上記の二つの屋敷を中心に描いたもののようであり、周辺部は正確さを欠いているむきが見られる。
 さて、この絵図で注目すべき点は「古城」の本丸他の堀が「ウメホリ」と記されていることである。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のおり、真田父子が籠城した上田城は、合戦後破却されたという。この図の通りとすると、堀も埋められてしまって、全くの廃城となっていたことになる。なお、真田昌幸の築いた上田城の中心部は、今の地より少し右へ寄っていたという説もある。しかし仙石忠政の上田城再築についての覚書によれば、この「ウメホリ」を再び掘り上げた、即ち位置はそのまま、と考えた方がよいようである。


長野市妻科
米山一政氏蔵