上田築城
 上田城も前述のように、山城から平城へという全国的な傾向のなかで築かれた平城の一つである。そしてこの天正11年の上田築城は、その前年の主家武田氏の滅亡に続く大動乱のなかで、小県郡統一を展望する真田昌幸の打った一つの布石でもあった。
 それはともかく、上田城は上田盆地のほぼ中央の地に築かれ、松尾城や、この直前までの昌幸の居城戸石(砥石)城に比べ、はるかに交通便利な要衝の地に位置していた。
 同じ真田氏により、上田盆地という同一地域内で、山間部の山城から平野部の平城へ進んだことは、築城史からみても興味深いことと言える。
 ところで、武田氏配下時代以来、真田氏がその攻略・経営に尽力した北上州の中心である沼田城は、沼田盆地の中央、利根川の河岸段丘がい上に位置している。この点などは、尼ケ淵あまかふち城とも呼ばれ、やはり河岸段丘上に位置する上田城と良く似ている。上田築城に際して、昌幸は沼田城を念頭に置いていたとも言えようか。
 いずれにしても、天正10年以前まで、北上州にその活動の中心を置いていた真田昌幸は、これ以後は上田城にあって、小県の経営に積極的に乗り出すことになる。
天正年間上田古図 / 元和年間上田城図(真田家御事蹟稿附図)

上田城跡出土桃山期瓦