昌幸時代の上田城の建造物について
 これらの瓦とは別に、その真偽のほどははっきりしないが、江戸時代の中頃、やはり金箔を置いたしゃち瓦が発見されたとの話もある。
 その話は別としても、以上の瓦類は明らかに桃山期、即ち真田氏時代のものと考えられる資料であるが、従来、研究者にはほとんど注目されないでいた。
 後述(88頁)のように、文禄3年(1594)の伏見城普請には、真田昌幸・信之・幸村の父子3人も動員されている。注目すべきは、その伏見城跡出土の軒丸瓦の菊花文様と、上田城跡出土軒丸瓦の菊花文様が、全く同じといっても良い点である。
 従来、真田昌幸の築いた上田城は、天守閣はもちろんなく、戦闘本位のごく簡素なものであったといわれており、それがほぼ定説化している。しかし、これとてもはっきりした根拠があるわけではない。
 動乱のさ中であった天正11年(1583)の築城開始当初はともかくとして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦(戦後上田城は破却)までの間には、平和な時期も10年以上ある。秀吉の隠居城として築かれた伏見城は、瓦などの外観及び内装ともに、金銀づくめの豪装さで人々の目を奪ったという。あるいは、この伏見城普請に動員された真田父子が、その影響を受け、それ以降でもあろうか、いずれにしても慶長5年までの間には、天守閣とはいわないまでも、前掲の様な金箔瓦を屋根に載せるのにふさわしい規模の建造物を、上田城内に建てていた、とだけは言えようか。これも今後の研究課題の一つであろう。
 なお寛永年間に仙石氏が建てた上田城やぐらの鬼瓦と軒丸瓦には、同氏の家紋永楽通宝文が使われている。その後松平氏になってからは、鬼瓦はやはり同氏の家紋五三桐文、軒丸瓦は三巴文のものに変えられ現在に至っている。