慶長10年(1605)3月17日 柳沢与兵衛宛宮下藤右衛門判物
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殿様(真田信之)の命令で、原町の町割を変更するにつき、お前の屋敷が町にあたるから、間口2間、奥行28間のところを無役にして与えるというもの。北国街道の路次も決定され、宿駅等の整備も進められつつあったこの時期に、その宿場の一つ(上田宿)でもあった上田城下町においても区画整理が行なわれたことが知られる好史料である。
なお柳沢氏は江戸時代を通じて海野町の問屋(本陣兼帯)を勤めている。
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 上田市下堀 柳沢暢宏氏蔵
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殿様御意に付き、原町わりなをし成され候に付き、其の方屋敷、町にあたり申し候間、面口二間浦へ二十八間の処、やくなしに出し候。替りには源右衛門浦のとおり、かたは町八間の処、半伝馬にて相渡し候間、これにはやくぎ有るべく候。後日の為、此の如くに候。
巳ノ三月十七日 宮下藤右衛門(花押)
柳沢与兵衛殿
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