神川合戦(第一次上田合戦)
 上田城は築城後間もない、天正13年(1585)閏8月、徳川家康軍の攻撃をうける。
 これは、真田昌幸が、彼の実質的な領地であった上州の沼田領(利根・吾妻の2郡)を、北条氏に引き渡すように、との家康の命令を拒否したことが、その原因であった。
 攻める徳川勢は7,000余騎の大軍、守る真田勢はわずか騎馬200余、雑兵1,500余程だったという。
 しかし、地の利を生かし、また「千鳥がけ柵」等、縦横に術策を駆使した真田軍の前に神川まで押しもどされた徳川軍は、おりからの神川の増水もあり、大混乱に落ち入り、大敗をきっすることになった。
 徳川軍の戦死者は、2,000人ともいわれる。
 後退した徳川勢は、真田の支城である丸子城を、とりあえず攻めおとそうとしたが、結局これも落とせずに終っている。
 この勝利により、真田の武名は、一躍天下に鳴りひびくことになった。


昌幸、上杉氏に臣属、幸村(信繁)人質に
昌幸、豊臣秀吉に接近