天正13年(1585)6月24日 諏訪久三宛真田弁丸(幸村)安堵状
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天正13年、沼田領を北条に渡せ、との徳川家康の命を拒否した真田昌幸は、徳川軍の来攻を予想し、越後の上杉景勝に救援を求めた。そして昌幸は、上杉方へ二男弁丸(後の信繁・幸村)を人質として送った。ときに弁丸は17才であった。
弁丸は上杉氏の北信濃経営の中心基地海津城に落ち着いたのであるが、このとき、先に上杉から徳川へ寝返った、屋代左衛門尉秀正(更埴市屋代辺を本領とする)の旧領を与えられたことがこの文書より推察される。
即ち、屋代氏の旧領を宛行われたのであろう弁丸が、屋代氏の家臣であったが、そのまま同地に止まっていた諏訪久三に、左衛門尉が与えていた本領を、そのまま安堵(保障)するというものである。
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更埴市屋代 諏訪慎平氏蔵
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向後別して奉公有るべきの由に候条、左衛門尉殿判形の如く出し置き候。本領二十貫文、本意に於ては重恩として拾貫文、場所の儀は糺明せしめ、必ず相渡すべく候。弥戦功肝要たるべく候。恐々謹言。
天正十三乙酉
六月廿四日
弁 (花押)
諏訪久三殿
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