天正17年(1589)11月21日 真田昌幸宛豊臣秀吉書状
 秀吉の裁定により、真田分となった名胡桃城が北条兵に奪取された事件が、秀吉のもとに報ぜられたとき、秀吉から昌幸に送った書状。
 上洛して秀吉に出仕しない北条が、その前線の一部隊の行動とはいえ、さらに秀吉の裁断を破って、真田領を犯したことにより、秀吉は激怒、この書状に続いて、来年には北条征伐に出陣するとの最後通牒を、北条氏直に送っている。


長野市松代
真田宝物館蔵
其の方相抱ふるなぐるみ(名胡桃)の城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ、物主を討ち果し、彼の用害を北条方へのっとるの旨に候、此のころ氏政出仕致すべきの由最前御請け申すに依って、たとへ表裏ありと雖も、その段相構へられず、先づ御上使を差し越され、沼田城を渡し遣はされ、其の外知行方以下相究められ候のところ、右のはたらき、是非なき次第に候、此の上は北条出仕申すに於いても、彼の名胡桃へ取り懸り討ち果し候者共成敗せしめざるに於いては、北条赦免の儀これあるべからず候。その意を得、堺目の諸城共来春まで人数を入れ置き、堅固に申し付くべく候。自然そのおもて人数入り候はば、小笠原・河中島へも申し遣はし候。注進候て彼の徒党等を召し寄せ、懸け留め置くべく候。誠に天下に対し、抜公事表裏仕り、重々相届かざる動これあるに於いては、何れの所なりとも、堺目の者ども一騎懸に仰せ付けられ、自身御馬を出され、悪逆人等の首を刎ねさせらるべきの儀、案の中に思し召され候の間、心易く存知すべく候。右の堺目又は家中の者共にこの書中相見せ、競なすべく候。北条一札の旨相違に於いては、その方儀本知の事は申すに及ばず、新知等仰せ付けらるべく候、委曲浅野弾正小弼(長政)・石田治部(三成)少輔申すべく候なり。
  十一月(天正十七年)廿一日  (朱印)(豊臣秀吉)
   眞田安房守とのへ