慶長8年(1603)3月15日 信綱寺宛真田昌幸書状
 高野山蟄居中の昌幸より、信綱寺に返信したもの。昌幸は家康側近の重臣本多佐渡守正信へ手を回して、赦免について家康への取り成しを頼んでいたようで、流罪になってまだ2年余のこの時期に、既に、近いうちの下山を、期待していたことがわかる。


真田町横尾
信綱寺蔵
 なほなほ、銀子二匁目出珍重に候。以上。
度々尊札に預り候。恐悦の至に候。仰の如く、それ以来は申し承はらず候。この方替る儀なく候。御心易かるべく候。よって内府(徳川家康)様当夏中関東御下向の由風聞候の間、拙子こと本佐州(本多正信)定めて披露に及ばるべく候か。下山に於いては面拝を以って申し承はるべく候。恐惶謹言。
安房
 卯之三月十五日 昌幸(花押)
  信綱寺