慶長16年(1611)6月13日 真田信之宛本多正信書状
 同年6月4日、真田昌幸は、配所高野山麓九度山において没した。そこで信之は父の死を弔いたいとして、本多正信に相談した。それにつき、正信が、昌幸の死をいたむと同時に、信之の気持ちはわかるが、昌幸は流罪人であり「公儀御憚りの仁」であるので、幕府の許可を得た上で弔うように、と申し送った書状。


長野市松代
真田町宝物館蔵
 「切封端裏)
 「       本多佐渡守
   眞田伊豆守様     正信」
         御報
御親父様、高野に於いて御遠行の儀、是非に及ばざる御事に候。然らば、貴公御弔ひ成されたきの由、示し預り候。尤の御事に候へ共、公儀御憚りの仁に候の間、御諚を得させられ候はでは如何の儀に候の条、いつにても御父子様へ御仕合次第、御意を得させられ、その上御赦免に於いては、御弔成され然るべく候はんかと存じ奉り候。御尋ねに候の間、貴公御ために候の条、愚意の通り啓上仕り候。誠に高野に御座成されて候ても、何事もなく御入り候へば、いづれ御国御赦免の儀、御袋様より節々仰せ下され候の間、御仕合をためらい申し候ところに、か様の儀幾度申し候ても是非に及ばざる御事に候。御袋様御内様へ御力落の由御心得に預るべく候。恐惶謹言。
 六月十三日   正信(花押)