慶長20年(1615)5月7日 大野主馬書状
 慶長20年5月7日というこの日は、夏の陣最後の一大決戦の日であり、幸村も討ち死にした日にあたる。この文書は、大坂方の指揮官の一人であった大野主馬治房の、軍令状というべきもの。
 今日の戦いは、天下分け目の合戦であるから、軍法を堅く守り、決して茶臼山・岡山より南へは進出しないこと、真田(幸村)・毛利(勝永)と申し合わせ、軽率に戦いを始めないようになどと指示し、敵を引き寄せてから決戦に及べば、必勝間違いない、としている。
 大坂城方の最後の作戦がはっきりわかる、珍しい史料である。

上田市坂井田町
猪坂 直一氏蔵
猶以て真田(幸村)・毛利申し合わせ、そつじ(卒爾)かっせん(合戦)然るべからず候。今日一大事、天下わけめの合戦に候間、ぬけがけこれなき様に堅く堅く軍法せん用に候。菟角敵を引き請け候て、一戦におよび候はば、かならずかならずりうん(利運)たるべく候。
重ねて申し遣し候。敵押し寄せ候とも、ちゃうす(茶臼)山・岡山より、主馬(大野治房)人数出し候はば、かならずかならず大事にて候間、此の段侍共に能く能く申し付け、法度にちがへ候はば、則ち成敗申し付くべく候。昨日のかせん(合戦)も、余りにあし長に出で候て、不覚取り候間、今日の合戦一大事に候。主馬一人の手柄にても惣様のまけになり候へば、せんなく候間、軍法堅く申し付くべく候。謹言。
五月七日(慶長二十年)
大主(大野主馬治房)