慶長17年(1612)閏10月24日 真田信之宛同信昌書状
 信之の家臣、唐木田勘兵衛が百姓と争って、引きこもってしまい、信昌にその取りなしを頼んだ。そのため、信昌が信之に勘兵衛を許してくれるように頼んだ書状。信昌文書で現存するものはごく珍しい。

長野市松代 矢野磐氏蔵
一書啓達せしめ候、其れ以来は書状を以て申し上げず、無音ぶいん申す事迷惑仕り候。去る時分は相煩い候に付いて、御見廻りの為、遠路御飛札かたじけなく存じ候。今に気相尓々共御座なき故、此の度相国様(徳川家康)御気色にも、其の御地参上申さず迷惑仕り候。去りながら此の中は気相ちと能き様に罷り成り候間、自然暮迄散仕り候は、其の御地参上致すべく候間、其の剋伺候致し、御意を得べく候。仍って唐木田勘兵衛百姓と出入でいり御座候に付いて、御前相背き引籠り申し候由に候。遠路参り候て、我々をたのみ申し候間、大形の義には御ゆるし成され、召し置かれ下さるべく候。其の為、一書かくの如くに候。恐惶謹言。
隠岐守(真田信昌)
  閏十月廿四日     □(花押)
   真田伊豆(信之))】守様
       人々御中