真田昌親
 真田昌幸の三男。即ち、信之・幸村の弟。通称は内匠たくみ
 関ヶ原の役にあたり、親子が東西に別れた際には信之に従ったという。
 知行ちぎょう所であった内村郷平井村(現丸子町平井)に、慶長元年(1596)〜元和4年(1618)の間住んだ。その屋敷は3反3畝7歩半、林が8反4畝15歩とある。
 寛永9年(1632)7月没。49才。追号は清涼院殿第安源及大居士。墓は松代大林寺と善光寺境内にある。(大鋒院殿御事蹟稿・真田系譜稿による)
 なお、昌幸にはもう一人の男子、四男の左馬助信勝があった。慶長14年9月、江戸において近江膳所城主戸田氏鉄の弟勝興と喧嘩、切殺されたとも、相手を斬って逐電したともいう。
(慶長見聞録・寛政重修諸家譜による)

真田昌親屋敷跡推定地 / 善光寺境内真田昌親墓