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仙石氏の上田城大改修 |
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関ヶ原の合戦に際し、真田昌幸・幸村父子が籠城して、徳川軍を苦しめた上田城は、戦後破却され廃城となってしまう。
二代上田城主となった信之は、町家の整備再編等、城下町の整備には力を入れているが、城の修築を行ったという明確な記録はない。 そして元和8年(1622)真田信之にかわって、上田へ入封した仙石忠政は、寛永3年(1626)幕府の許可を得て、上田城修築に着手する。途中、忠政が死んで、一旦工事が中止されたことなどもあり、その完成をみたのは、着工後15年も経た寛永18年であったという。いずれにしても、この大工事により、上田城は面目を一新した。現在本丸に残る三つの 上田城・城下町を正確に描いた現存する最古の絵図は、修築完工後間もない正保4年(1647)のものである。この古絵図と、それから200年以上も後の、幕末期の絵図と比べてみても、城郭自体は全く変わっておらず、城下町も小路がわずか増えたくらいで、その規模はもちろん、町割りもほとんど変わっていないことがわかる。 |
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上田城跡 / 永楽通宝紋入鬼瓦 / 永楽通宝紋入軒丸瓦 / 鯱瓦 / 築城奉行原五郎右衛門の墓 / 天保4年(1647) 信州小県郡上田城絵図(部分) |
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