上田城 年表
天正11年(1583)
 真田昌幸が上田城の築城に着手。
天正12年(1584)
 徳川家康が昌幸に上州沼田城を北条氏に明け渡すように命ずるも、昌幸は拒絶。
天正13年(1585)
 昌幸、家康から上杉景勝に転属。徳川軍が上田城を攻める(第一次上田合戦)。
 上田城が一応の完成をみる。
天正14年(1586)
 昌幸、この頃に豊臣秀吉に臣属。昌幸の城下町整備に関する最古の文書(願行寺文書)が残る。
天正18年(1590)
 秀吉の天下統一。信濃にも配下の諸大名が配置され、普請が開始される。
 上田城も大規模な改修を行ったものと推定される。
慶長 5年(1600)
 関ヶ原合戦に際し、昌幸・幸村(信繁)父子上田城に籠城、徳川秀忠軍を退ける(第二次上田合戦)。
 合戦後、家康の命により諏訪頼水、依田信守、大井政成ら上田城番として入り、上田城の堀を埋め、塀を破壊。昌幸・幸村は高野山に配流。
 上田領は徳川方についた長子信之に与えられた。
慶長 6年(1601)
 この年の前半頃までに、徳川軍により上田城が破却される。
 上田領は信之に引き渡されたが、城を復興せず、三の丸に藩主邸を構え藩政にあたった。
元和 元年(1615)
 大坂夏の陣で幸村戦死。
元和 8年(1622)
 信之、松代に移封。仙石忠政が小諸から入封。
寛永 3年(1626)
 忠政、上田城復興工事に着手。
寛永 5年(1628)
 忠政没する。これにより城普請は中断。
 上田城復興工事は未完成のまま終了。
正保 4年(1647)
 上田城絵図(いわゆる正保絵図)、信濃国絵図とともに幕府に提出される。
元禄15年(1702)
 二の丸北虎口土橋の木樋を石樋に変える。
宝永 3年(1706)
 仙石政明、但馬の出石(豊岡市)に転封。
 出石から松平忠周が上田へ入封。
享保18年(1733)
 前年の洪水で破損した崖面の修復に合わせて、その前面に護岸用の石垣を築造(同21年に完成)。
慶応 3年(1867)
 大政奉還。
明治 2年(1869)
 版籍奉還。
明治 4年(1871)
 廃藩置県。上田藩は上田県となり、ついで長野県に統合される。
 上田に東京鎮台第二分営が置かれ、上田城はその管轄下に置かれる。
明治 7年(1874)
 前年の分営廃止に伴い、上田城跡の払い下げが始まる。
明治10年(1877)
 本丸隅櫓2棟が上田遊郭に移築され、貸座敷「金秋楼・萬宝楼」として営業を開始。
明治18年(1885)
 上田監獄支署が二の丸に完成。
明治29年(1896)
 この頃、本丸跡が公園としての体裁が整う。
大正12年(1923)
 上田市公会堂を二の丸に設置。
昭和 2年(1927)
 二の丸橋竣工。二の丸堀跡を通る上田温泉電軌北東線が部分開通。
 市営陸上競技場、野球場を二の丸百間堀跡に設置。
 この工事の際に金箔瓦出土を伝える。
昭和 3年(1928)
 長野刑務所上田出張所(旧上田監獄支署)が城外に移転し、跡地はテニスコートと児童遊園地(4年)に。
昭和 4年(1929)
 本丸に唯一残っていた櫓(西櫓)を徴古館として一般公開。
昭和 9年(1934)
 上田城跡(本丸・二の丸)が国史跡に指定される。
昭和16年(1941)
 金秋楼・萬宝楼として使用されていた2棟の櫓が売却され、東京の料亭に転売される。
昭和19年(1944)
 櫓再建工事の上棟式が挙行されるも、太平洋戦争の戦局悪化のため工事中断。
昭和23年(1948)
 上田城址保存会再発足。櫓再建工事が再開。
昭和24年(1949)
 2棟の櫓(南櫓・北櫓)落成。金秋楼が南櫓、萬宝楼が北櫓として復元される。
昭和28年(1953)
 3棟の櫓を上田市立博物館として公開。
昭和34年(1959)
 本丸の3棟の櫓が長野県宝に指定される。
昭和47年(1972)
 二の丸堀跡を軌道敷とした上田交通(旧上田温泉電軌)東北線廃止。
平成 6年(1994)
 本丸東虎口に櫓門が復元される。