正保〔しょうほう〕の国絵図の内容が古くなったため、元禄〔げんろく〕9年(1696)江戸幕府は全国の大名〔だいみょう〕に、その改正絵図の作成を命じました。信濃国〔しなののくに〕絵図については、松代藩〔まつしろはん〕(真田〔さなだ〕氏)・松本藩(水野〔みずの〕氏)・上田藩(仙石〔せんごく〕氏)・飯山藩(松平〔まつだいら〕氏)の四藩が分担して調整し、元禄14年に幕府へ提出しました。
この「元禄の信濃国絵図」は、それを縮小して写し、掛〔か〕け軸〔じく〕に仕立ててあります。元の図は正保の国絵図と 同じで、大き過ぎることもあり、手軽に見られるようにしたものでしょう。また、必要性が低いと考えたためでしょうか、伊那郡や木曾など南部は、北部に比べて大幅に縮小してあります。
郡ごとに村名を色分けするなど、正保の国絵図とほぼ同じ方式で作成されたものですが、周囲の山岳〔さんがく〕部分の国境〔くにざかい〕についての注記が詳しいことが、特徴となっています。また、余白〔よはく〕に小県郡〔ちいさがた〕(六万六一四三石〔こく〕五斗〔と〕余)など郡ごとの石高〔こくだか〕と信 濃の総石高(六一万五八一八石七斗余)も記されています。なお、この絵図は仙石氏のあと上田藩主となった松平家〔まつだいらけ〕に伝わったものです。