真田幸隆
 その発祥については諸説があるが、いずれにしても山間の一小土豪に過ぎなかった真田氏が、天下に名をはせる基礎を築いたのは、弾正忠だんじょうのじょう幸隆という豪傑の出現による。
 天文10年(1541)海野(現東部町)を本拠とする海野うんの氏が、武田・諏訪・村上の連合軍に攻められ、さんざんに敗れて没落する合戦があった。いわゆる海野平うんのだいら合戦である。この敗戦により、海野氏の一族であった幸隆も、真田の地より上州へ逃げたといわれる。
 しかし幸隆は、この合戦後まもなく、天文13年頃には武田信玄の家臣となっている。
 幸隆は信玄に重用され、「信州先方さきかた衆」の旗頭として、東北信地方の攻略に活躍している。即ち、上田原・戸石・塩田城・川中島とつづく合戦に常に武田勢の第一線で参戦していたのである。
 さらに幸隆は、信玄の命をうけ、鳥居峠を越え、北上州の吾妻郡へと転戦する。永禄6年(1563)には、吾妻郡の中心拠点ともいえる岩櫃いわびつ城を、ついで同8年には岳山たけやま城を攻め落とし、吾妻の経営をまかされる。この地での幸隆の活躍は、やがて子の昌幸にうけつがれ、北上州一帯が真田氏の大領地となっていく。
「海野平古戦場」の図 / 海野幸義の墓 / 武田氏館跡

岩尾城
戸石城攻略
塩田城攻略
真田幸隆、川中島参戦
岩櫃城攻略
真田幸隆の死