関ヶ原の役と上田籠城(第2次上田合戦) |
慶長5年(1600)7月、徳川家康の命に従い、上杉景勝征伐の軍に随行して、下野国犬伏(現栃木県佐野市)に陣を取っていた真田昌幸に、石田三成方である豊臣家奉行長束正家等よりの密書が届いた。豊臣秀吉の遺子秀頼を擁して、反徳川の兵をあげたので、是非味方になってくれ、というのである。そのため、昌幸とその長男信之、次男幸村の父子3人による協議がなされた。石田三成の妻は宇田頼次の妹だったが、その頼次の妻は昌幸の娘であったらしい。また幸村の妻は三成の親友大谷吉継の娘であったのに対し、信之の妻は徳川家康の重臣本多忠勝の娘であった。このように、それぞれの姻戚関係もあった。また父子分立していれば、最低限真田の家名は保てる、等のことが話し合われたものと思われる。そして昌幸・幸村は信之とは別れ、石田方につくべく、上田へ帰ることになった。
即ち、天下分け目の関ヶ原の戦いに際して、真田氏は東軍(徳川方)西軍(石田方)に父子兄弟相分かれて戦うことになったのである。 昌幸と幸村は上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠軍3万8,000人をわずか2,500の兵で防ぎ切る。 徳川軍は結局、8日間も上田に釘づけにされ、日時をむだに費しただけに終った。しかもそのため、天下分け目ともいわれた関ヶ原の合戦に間に合わなくなってしまう、という醜態を演じてしまうことになったのである。 |
|
|
上杉征伐従軍 石田方より昌幸宛最初の密書 父弟と別れ東軍に残った信之への家康書状 家康、信之に父昌幸の所願(小県郡)安堵 西軍の中心人物、石田三成密書 徳川秀忠軍、上田城(小県)攻め 小諸海応院徳川秀忠遺物 |