農民美術建業之趣意
農民美術、PEASANT ARTは何れの國にもあるが、是れを現に、組織的に國家の産業として奬勵して居るのは露西亞である。其製作品は廣く歐米に輸出せられて遂年其額を加へ、PEASANT ART IN RUSSIA の名は今まさに、美術的手工品及手工的玩具の市塲に首座を占めて居るのである。
農民美術とは、農民の手によって作られた美術工藝品の事であって、民族的若くは地方的な意匠、――素朴な細工――作品の堅牢、等が其特徴とせらるゝのである。
日本にも農民美術と稱す可きものが昔から、各地にあるにはあったが、其製作上の方針が頗る消極的で、何等の産業的組織も、美術的奨勵もなかったために、段々製作品の美的價値が低下して、終に機械力に壓倒されて衰亡してしまったものが多く、今日では、外國に對してPEASANT ART IN JAPAN と名づく可き何ものも無いのである。
而も吾が國は由來、美術工藝に就ては、アテネの大美術にも比肩す可き光榮ある成蹟を有して居り、本能も趣味も共に頗る美術工藝に適した民族なのである。
されば、此處に若し、或る國家的理想と、微細にして廣汎なる産業的組織とを以て、美術的手工品の製作を奨めたならば、必ず愉快なる成果を見るに違ひない。
私が露西亞の滞在に心をとめたのは其處である。
PEASANT ART IN RUSSIA に對比す可き、PEASANT ART IN JAPANを今日に興して、民族と時代との特色を工藝美術の上に現し、以て其名譽と利益とを國家に捧げんかな、と建業の志を固めたのも其處である。
建業の志は、同志の協賛によって、此處に具体的の方針を得、まづ、本年に事を創めて、明後年の末までには少くとも、男女約百名の農民美術家を作り、若干種の製作品を公表發賣するまでに進めやうといふ事に一決した。
それで、吾々は最初の志望者を募らむが爲に此趣意書を作った次第であるが、此處に一と通り、建業の目的と其方法を述べる事にする。
建業の目的は、汎く農民をして農務の餘暇を好む處の美術的手工に投ぜしめて、各種の手工品を穫、是れを販賣流布しつゝ、終に民族と時代とを代表するに足るPEASANT ART IN JAPAN を完成し、以て美術趣味と國力とに稗益せんとするのである。
吾々の製作品目は、木彫玩具――彫刻を施したる文房具――装飾せるくりもの――繍刺及染色したるテーブル掛け、クツサン、袋物用の布、――簡單なる陶器――椅子、テーブル、書棚等の小家具――壁紙等に及ぶのであるが、すべて必ず手細工に依って作られ、若し機械製品に對して經濟的の競爭をまぬがれ得ざるものとすれば、それは、農務の餘暇に作らるゝ事、産出面を充分擴げ得る事、及それに對する特別なる産業的組織によって、支持せらるゝであろうと考へる。さて、事業の方法が最も重要である。
吾々は是れを大体、露西亞のクッタリヌイミユゼエの形式に學むで、第一期の終りに(吾々は事業を大体三期に分けた)は秩序ある農民美術學校及、製作品の販賣部を設けやうと思って居る。即ち農民美術學校では製作上の意匠圖案(是れが此事業の最も重要なる部分で、私は、吾が民族の槫統を注意した意匠――形式美と地方色とを調和したる圖案に就て目下たえず研究して居る)を決定し、常に製作法を研究して是れを教授し、以て各地に供給すべき専門的の農民美術家を養成するのである。
製作をどういふ風に勸め集めるかといふ事はまだ決定して居ない。製作と販賣との關係に就いてもむろんはっきりした考へはない。それ等の事は、最初の販賣を試むるの日、即ち豫定する明後年の末までには自づから定まるであらう。前に事業を三期に分けたといったが、大体こうである。
第一期――玩具、文房具、箱、テーブル掛、クツサン、等の意匠、圖案、製作法を決定し、練習所を神川村に置き、志望者を教導して、若干の農民美術家を作り、其製作品を公表發賣し、更に漸次志望者を収容して産業面を小縣一郡に及ぼす事。
第二期は――更に陶器、染色物、等を加へて、神川村に農民美術學校を建設し、産業面を長野縣下に壙げる事。
第三期は――更に小家具、壁紙、等を加へて、産業面を全國に及ぼし、東京に農民美術學校及陳列販賣所を置く事。(販賣の方法は最初は依托販賣後には獨立した販賣所を設ける)
以上は、今日に於ける吾々の希望と、計劃とであるが、なほ私には農民美術に附帶する有意義なる社曾事業が考へられて居る。併し企望ばかり陳列してもしやうがない。勇氣と智慧とはすべて實行の路上に與へられねばならない。
どうぞ、吾々の趣意を了解せらるゝ諸君には直接と間接とにかゝわらず力を添へて戴き度い。私は勿論決して急がない、併し決して又憩まない。まづPEASANT ART IN JAPAN が立派に産業的組織の上に完成したな、と見た日に、はじめてゆっくりと睡るであらう。その睡こそ永遠に覺めなくてもかまわない。
では、別に示された方法によって、諸君が悦むで募りに應じられ、製作を練習し製作を提供せられん事を希望します。
(山本誌す)
大正 八年 十月
山本 鼎
金井 正
農民美術運動家 山本 鼎
山本先生が大正の初期ヨーロッパからシベリヤ廻りで帰国されると、実父一郎氏の居住しておられる信州の大屋(信越線大屋駅のある村)の父母のもとに長い旅装をといた。実父は当時、医を業としており、小学校の校医でもあった。
先生が帰国した当時の農民は、第一次大戦と資本主義経済のあおりをくって非嘆のどん底におちいろうとしていた。
農民生活が安定しない限り国をよくすることができないと考えた先生は、農民の長い農閑期を有効に生かすこと、この農閑期の空間をいかなる方法で振興をはかるかを考えた。
それは、ヨーロッパ、シベリヤなどで、つぶさに見学した民芸品がいなづまのごとくひらめいてきた。よしこれだ。
農民美術によって、長い農閑期の空白を充実した農民生活に高めようと決心されたことは、のちのちの農民美術の発展によって一目瞭然のことと思う。
思いたつと、じっとしていられない先生は早速村の有士とはかり、講習会場を神川村尋常高等小学校で火ぶたをきった
その年は大正八年だったと思う。小学校の校門の石柱に農民美術研究所と大書された大きな看板がさがり、小学生たちはもちろんのこと、村民たちは農民美術研究所などという、ついぞ考えたこともない字句を見て、おったまげてしまった。
信州は教育県などといわれていても、まだまだ封建的思想は根強く残り、農民美術研究所の看板を見て、こりゃ共産主義の宣伝ではないかと早がてんしたというような笑い話しすらあった時代ですから、山本先生の運動に賛成して、学校の教室を二つもあけてくれた、当時の校長の決断や村長の英断は非常な覚悟であったと思う。
もう一つ特筆したいことは研究所の費用、資金を投入した、国分寺のある国分村の資産家で、当時最進歩派であった金井正さんの協力は忘れてはならない重要なことだと思う。
第二回目の講習会は、小学校をさって、金井正さんの蚕室で開いています。
もう一ぺん話をもとに戻して、第一回講習会が小学校で始まりますと、男子部の研究室から、こっぱを割るつちの音が聞え、青年たちの楽しそうな歌声が聞こえます。わたしども学生にはそれがなんとなく新鮮で、つられるように窓によじ登り、中をのぞき込んだ記憶がいまだに鮮明に残っています。
彫刻の主任は村山桂次先生(洋画界で有名であった村山槐多さんの弟さんです)絵画部の主任が山崎省三先生でした。女子部の先生の名前は忘れて残念ですが、ココの声をあげた研究所内の空気は私共子ども心にも非常に希望に満ちた明るい印象が残っています。
一九二一年の春小学校の年度変りと同時に農民美術研究所の第一回講習会も幕をしめています。先生たちは東京へ引上げ研究生たちは農家にもどって本来の百姓にもどるわけです。五月には研究生たちの手によって生れた民芸品展覧会を東京室町の三越本店で開く事になっており研究生一同は胸おどらせて上京した恩師たちとの再会を約しています。
ここでちょっと私事にわたって失礼ですが義務教育も終った私は十六才の春、山本先生のお世話で東京の吉田白嶺(日本美術院同人、農民美術にも関係しており村山桂次先生の師でもあります)家弟子として入門することになっていました。彫刻家として、人生をおくる道を ひらいてくれたのが山本先生であり、恩人に対して喜んでこの拙文をお引受けした次第であります。
研究生たちにとって待望の五月がきました。自分たちの作ったものが世間からどのような批判を受けるか、土俵にのぼったような気持で上京します。三越の会場についてみますと、会場内の空気は割れるような盛況で喜びにあふれています。全作品は売約済みの赤紙がべたべた。研究生たちはあいた口がふさがらないといった表情でした。
山本先生は前に自由画運動で大きな種を蒔き、今度は農民美術運動の前途に光明を見てどれほどかほっとして胸をなでおろしたことかと思います。
同年の冬がきて、研究所を小学校から金井正さんの蚕室に移動しております。私はこの時すでに上京しておりこの間の短かい期間の動勢は知りませんが、すくすくと成長していたことは後々の発展でおわかりのことと思います。
大正十二年人屋の高台に民家風の三階建の堂々たる研究所が建設され、いよいよ農民美術運動が本格的な活動にはいるわけです。全国からは名士や研究生たちが続々と集まり一段と活気がみなぎった感は、少年期を脱して青年期に成長したような力で張切っていました。
木工部には電気のこのモーターがうなり、三階のデッサン部では木炭というものを始めて握って手を真黒にしている情景などはほほえましいほどであった。
研究所内のスケッチはこのくらいに略して、残りの紙数を山本先生の人間性の一端にふれてみたいと思う。
山本先生の農民美術に対するもえるような情熱と企画性には素晴らしいものがあった反面、残念なことに経営的能力において歩調があわなかったのである。晩年の悲劇の原因はそこに根ざしていたと思う。
農民美術がりょうげんの火の如く普及していく反面、本部、研究所内の経営部は日に日に赤字続きの火の車であった。研究所の仕事が広がればひろがるほどその度合がひどくなっていった。
余談になるが私の師吉田先生は山本先生と親友であり、農民美術にも関係していたので、山本先生のその弱い面をいつも心配していた。「おしいなあ山本君も」と嘆息する声を聞いたことは一度や二度ではなかったと思う。
結論的にいえば本来画家業である者に、経営的才分のある人などなかなかあるものでないが、私の場合、山本先生に対してはそんな生まぬるい温情主義的なことなどいいたくないほど気の毒でたまらないのだ……一本の縄が完全でなかった。
話はかわって山本先生の酒肴嗜好についてふれると、よく酒を愛された。酒席を共にした時、先生は女中にやかんを命じて酒をぐらぐらわかしこれをコップでぐい飲みしてるさまを見て驚嘆した記憶がある。
これなども何ら農民美術とは無関係だが、女性を愛する点も並のものでなかったと人伝に聞いている。昔の言葉の英勇色を好むの部類であったかも知れない。
まあこんなことは世界にいくらもある例である。
のち先生は不幸にも榛名湖畔において写生中腦溢血にたおれ、決定的な打撃をうける。戦争苛烈、上田市の裏通りに疎開され画業に専念されていた。私の長兄実、農民美術の第一期生は近くにおり戦争中物資不足の頃、酒をおとどけすると、顔中に笑をたたえて喜んでくれるので、またいつもくめんしてお届けしたもんだよと聞いたことがあった、鳴呼。
くり返しいうが、先生はヨーロッパから帰国すると早々、自由画運動を起された。「手本を捨てよ、児童をして直接自然につかしめよ」とさけばれた。当時強力な官統制時代、先生は信念と情熱と勇気とをもって、敢然として運動に身を投じた。
農民美術運動も同様であった。以来何十年先生は画業もかえりみる暇もなく、農民美術の育成に全魂をぶちこまれた。後を追いかけることは容易だが、創造と行動はなまやさしいものでないということを知ると同時に、一そう私は山本先生に対して頭がさがるのである。
以上とばしとばし、大ざっぱに書きましたが、私はこの稿を書くにあたり、山本先生が昔巴里にいたころの日本人で戦前派の画家が残っているので、H氏宅を訪問して、山本先生の巴里時代のことを聞いてみたら、H氏はあまり山本先生とは密接でなく、ただひとこと、版画のことについて、「日本の版画界は山本君に対してもっと考えてもいいんじゃあないでしょうか」としんみりいっていました。
「日本の創作版画では恩人ですよ」といって口をつぐんだ。
一九六三年冬 巴里の於旅舎
(文章 : 中村直人)
その業績
金井正さんは全くの野人であったがその学識は実に深かった。当時自由大学に来諸した京大や東大の教授達が、金井さんの見識には深く敬意を表わしていた。金井さんの学問はありふれた田舎の物知りや、衒学的なつけ焼刃ではなく本格的なものであった。そして、それは書斉学問に止まらないで社会活動にまで発展していった。この意味で金井さんは学者で思想家で社会革新の先駆者であった。そして、そのやり方は常に世俗に超然として、自信満々、高踏的であった。その業績には頭の下がるものが少くない。
先づ広文庫やウェブスターの原書辞典を含む広範な金井文庫を神川小学校に依託し、やがて寄附した。時価にして何千万円に当ると思う。また厳父一平氏の葬儀には虚礼を廃し香典を謝絶し、法要のため大金を出して国訳大蔵経全巻を菩堤寺龍洞院に寄贈された。農民美術研究所の実際上の推進力であり、また自由大学創設の重鎮であった。村長、農業会長としては長年の抱負であった農民の解放、農業近代化のために、あらゆる抵抗を排して断乎として革新的農業政策をすすめた。その頃消防出初式に準じて農機具点検式を行ったことなど金井さんらしいエピソードである。
これらは何れも他の追随を許さないあざやかな手際である。そして、金井さんが常に世俗のはるか先頭に立って文化の開拓の道を進む先覚者であることを物語っていると思う。
人間 金井 正
学者金井さんは如何にも冷徹で堅ぐるしい人のように思われるが実際は学者肌ではなく寧ろ洒脱磊落な物わかりのよい人であった。そして、御自身としても形式や型に煩わされない人間そのものでありたいと思っていたようである。それに酒が好き煙草が好き話が好き、したがって人が好きであった。しかるに、実際には金井さんは近づきがたい人であるという印象の方が強い。
それは、金井さんはうそが大嫌らいで筋がちがったことは見逃がせないたちで、なかなかやかましい所があったからだと思う。うわべを飾ったりおもねったりすることはがまんができなかった。殊に社会的地位のある者の偽善的行為や打算的行為には義憤を持っていた。偽善家や野心家のごまかしをがまんする程馬鹿げた忍耐力を持ち合わせないというのは金井さんの信条である。また伸びること、進むことに無関心な毒にも薬にもならない御都合主義者をも極度に軽蔑していた。
酒脱のようでも芯の強い金井さんは、談笑の中にも行動の中にも思っていることを素直に表現した。それが、相手の肺腑を刺戟したり軽蔑を感じさせたりすることが少くなかった。また、あの人間は問題にならない、と思うとろくな相手にもしなかったり、場合によっては遠慮なくやっつけるという風であった。それがだんだんの間に、話せる男と、くだらない奴との区別がはっきりすることになっていったのである。これが金井さんをけむたがる者、遠ざかる者が出てきた所以である。金井さんはこれを至極もっともな事であると思っていたようである。しかし、人々を善玉と悪玉に区別してしまったような行方は、金井さんにもプラスにはならなかった。村長、農業会長として事業遂行の場合に、思わぬ反対にぶつかって無益な苦労や時間を費すこともあったようである。
あふれる涙
また学究的な金井さんはすべてに理論的で、感傷的な涙を冷笑していた。しかし、人間金井さんには溢れるような涙があった。あの戦争当時幾多の出征兵士を送ったのであるが、その都度村長が壮行の挨拶をするのが役目であったが、金井村長にはそれは何よりも苦痛のようであった。何時でもその場になると胸が一杯になって言葉が詰ってしまう。 如何に形式的な激励のためでも応召者の命のことや、銃後の家の生活苦がわかりきっているのに、後のことは心配するな、とはどうしても言えなかったというのは金井さんの述懐である。
その他の事に於ても、「真実」には感激し易い人で、冷徹のようでいながらほんとうのことには手放しで涙もろい所があった。
晩年の金井さんは殆んど第一線をはなれ悠々余生を送っていた。訪ねる人も少く、私どもも御無沙汰をしていた。しかし、金井さんの訃報をきいた時は大きなショックを感じた。何だか巨星地に堕ちるというか、燈台を失ったようなさびしさを禁じ得なかった。
金井さん去って既に八年、ドカッとあぐらをかいて酒とお茶をいっしょに飲みながら、あの大きなパイプをくわえて、時のたつのも忘れて談笑する、得意満面の金井さんの風貌を想像し、懐かしさに堪えない。
(文章 : 堀込義雄)
「産業としての農民美術の成立について」
金井 正・著より
「産業が成立する」と、云うことを、製作品が利益あるように売れるという意味に解すれば、私共はこの質問に対して何とも答えることが出来ない。「安全なる利益」を先に考えるならば、新しい仕事を創めるほど馬鹿らしいことはない。
ロシア人形をみて「やってみたいな。やってみよう」と最後の決心をするまでに私共を動かしたものは「売れる、売れない」とか「確実な利益」とかいうよりは、もう一つ手前のものであったろうと思う。「人生の自然に根拠をおく仕事」ということの直覚が私共を最後の決心にまで動かしたのだということを今はっきり分かってきた。人生の自然に根拠をおかないような仕事は、それによってどんなに多くの利益が得られても結局それは廃滅するか、又は人生を救い難い堕落に引きいれるかに帰着する。