考古
史跡鳥羽山洞窟遺跡(しせきとばやまどうくついせき)の曝葬(ばくそう)
鳥羽山洞窟は長門(ながと)町と武石(たけし)村の境界に近い丸子町腰越(こしごえ)地区にあり、武石川が依田川に合流する名勝「飛魚(とびうお)」付近の右岸に接しています。このあたりは鳥羽山の岩肌が多くみえ、その中でひときわ大きな口をあけているのがこの洞窟です。洞窟の規模は幅約25メートル、奥行(おくゆき)約15メートル、高さ約15メートルもあります。
昭和41年から3か年にわたる発掘(はっくつ)調査を行い、その結果、洞窟が縄文時代から使われ、その後、5世紀中頃には古墳(こふん)を築かなかった豪族の葬所(そうじょ)として使われていたことが明らかになりました。葬所は風葬(ふうそう)に似た特殊な葬(ほうむ)りかたをしており、この葬りかたを曝葬(ばくそう)とよぶことにしました。
この曝葬は、洞窟内に依田川の河原石を三段の石段状に敷き、その石敷きの上に屍体(したい)をおいた状態で葬っていました。このほかに、主に脛骨(けいこつ)を集めて束(たば)ねた集骨(しゅうこつ)、頭蓋骨(ずがいこつ)などを焼いた骨焼(ほねや)きも行われていたことがわかりました。さらにこれらの人骨に伴って、須恵器の二重○(はそう)・カップ形土器をはじめ、琴柱形(ことじがた)石製品・石釧(いしくしろ)・鹿角装刀子(ろっかくそうとうす)などの優れた副葬品(ふくそうひん)も出土し、葬られた人びとがかなり有力な豪族であったことがうかがわれます。
古墳時代に古墳を築かないで、独特の葬法をもっていた豪族(ごうぞく)とは、一体どのような集団であったのでしょう。今のところ、依田窪(よだくぼ)地方ではそれをうかがうような集落の背景がみあたりませんので、おそらく外部、それも中央の先進地域から移動してきた可能性も十分考えられます。
なお、岩谷堂洞窟(いわやどうどうくつ)でも鳥羽山洞窟と同じく古墳時代後期(6世紀ごろ)に曝葬を行なっていたことが出土遺物などから推測されています。
鳥羽山洞窟遺跡は、昭和53(1978)年に国史跡に指定され、現状保存されています。